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ペリーvs江戸幕府!幕末の白熱外交事情

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

日本人は外交が下手だと言われます。

たとえば江戸幕府がペリーと結んだ日米和親条約について。

江戸幕府は突如現れた黒船に驚き、あたふたするばかりで何もできない状態でした。
結果、不平等な条約を日本は結ぶことになり、そのために明治政府は非常に苦労しながら条約改正に挑むことになりました。

そんな風に理解されている方が多いのではないでしょうか?

しかし決してそんなことはありませんでした。

逆に、本当は幕府の交渉役は非常に優秀で、日米和親条約は実は世界史的にも非常に希有な成果を出した、画期的な事例だったのだということが今回のテーマです。

日米和親条約で評価すべき内容

加藤祐三さんは日米和親条約を、史上初の「交渉条約」の実現だったと評価します。

そして、だからこそ明治政府は非常に短期間で条約改正をすることができたのだといいます。
では「交渉条約」とはいったい何なのでしょうか?

加藤祐三さんは近代の国際政治では、4つの政治体制があったといいます。

まず最初は「列強」です。
これはイギリスやアメリカ、オランダ、フランスなど。
いわゆる西洋諸国です。

2つ目は「植民地」です。
これはインドやインドネシアなど。
立法や司法・行政すべての権利を消失し、その改正には約200年の年月が必要でした。

3つ目は「敗戦条約国」です。
中国がこれに相当します。
中国はアヘン戦争で敗れ、「懲罰」として賠償金の支払い、領土割譲、司法・行政の一部を失います。
この改正には中国は約100年かかりました。

最後が「交渉条約国」です。
日本のほかは、タイがこれに当たります。
内容は「懲罰」はなし。司法・行政は一部喪失。片務性や条約の期限はなしというのが特徴です。
改正には約40年かかりました。

本来なら海軍力の格差によって、日本も「植民地」や「敗戦条約国」になりかねないところを、限界はあったものの史上初の「対話」による国交の樹立を江戸幕府は達成します。
これまでの歴史には存在しなかった「交渉条約国」という新しい国際政治のルールを確立したことが日米和親条約の画期的な点なのです。

江戸幕府の異国船への対応の変遷

田沼意次が政治の実権を握った頃から、ロシアが南下を始めロシア船が日本近海に現れるようになります。
それにあわせて寛政改革期以降、江戸幕府はロシア船の補給に対応するようになります。

ところが文化5(1808)年。
フェートン号事件が発生します。
これはイギリス船のフェートン号がオランダ国籍を偽って長崎に侵入し、オランダ商館員を人質に取って水と食料を要求した事件です。

この事件から反英論が沸騰し、文政8(1825)年に無二念打払令が出され、外国船はすべて打ち払うことになります。

しかし、天保8(1837)年に今度はモリソン号事件が発生します。

これはアメリカ船のモリソン号(当時はイギリス船と勘違いされていました)を無二念打払令に基づいて砲撃したのですが、後から日本人漂流民の返還のために来ていたことが判明し、非常に問題になったという事件です。

さらに天保11(1840)年、アヘン戦争で清国(現在の中国)がイギリスに敗北したとのニュースがオランダを通じて入り、イギリス脅威論が発生します。

あの大国である清国を破ったイギリスの船を、しかも日本人漂流民を返還に来てくれたにもかかわらず砲撃してしまったのです。

このままでは日本も逆に報復に来たイギリスによって、「植民地」か「敗戦条約国」にされてしまう・・・

それを恐れた幕府はまず、天保13(1842)年に天保薪水給与令がを出し、遭難した船に限っては補給を認めるようにしました。

そして江戸幕府は対策を立てはじめます。

交渉相手国を探す

江戸幕府は「植民地」や「敗戦条約国」にならないために、史上初の「交渉条約国」になる道を模索し始めます。

そこで最初の交渉相手をどの国にするのか?

という点は非常に戦略的に重要でした。

そして幕府が選んだのは「大国」のイギリスではなく「新興国」のアメリカでした。

実はペリーの来航はオランダを通じて、1年前より分かっていました。
そこで幕府はあらゆるルートを通じてアメリカの情報を集めます。

アメリカの状況で分かったことは5つありました。

1、メキシコとの戦争終了後も海軍力を維持したいと考えている
2、太平洋横断航路構想をイギリスよりも先に実現したいと考えている
3、アメリカの捕鯨船を守りたいと考えている
4、大統領と議会の関係は悪化している
  (宣戦布告は議会の権限。大統領は宣戦布告できない状況にある)
5、アメリカは清国(中国)と結んだ条約文を利用して交渉しようとしている

とくに4は戦争がないことが分かっているという意味で非常に重要でしたし、中国と結んだ条約文がベースになるということで、アメリカと清国(中国)で結ばれた条文を江戸幕府は徹底的に分析します。

これらを元に江戸幕府はかなり用意周到にペリーとの交渉に挑みました。

ペリーと幕府の主張

ペリーの主張と背景については以下の5つです。

1、捕鯨船への補給をしたい
2、難破船修理のための複数の避難港の開港をしてほしい 
3、難破船の救助をしてほしい
4、交易をしたい
5、大統領からは「発砲厳禁」との指令を受けている(議会・イギリス補給船対策)

ペリーの主張はまず1〜3を実現させ、できれば交易もしたいというものでした。

そして幕府側の主張と妥協ラインは以下の通りでした。

1、鎖国制は維持したい
2、アメリカも、現状の中国やオランダと同様の扱いにしたい
3、交易は不許可
4、開港地は下田・箱館(現在の函館)の2港までにおさえる

 幕府側の交渉成果

まず、江戸幕府は補給や修理目的の交渉だというペリーの初期の主張点を徹底的に突き、交易関連の交渉はすべて却下させることに成功します。

これは非常に大きな成果でした。

そしてほかには開港地を制限することに成功。

また開港地の下田での外国人の移動制限の確保を実現します。
また治外法権の排除や漂流民救助の双務性を確保します。
漂流民救助に関してはアメリカは日本人を救助するし、日本もアメリカ人を救助するということになりました。
日本にとっては別に得をする条文ではないのですが、そこだけでも対等の条件にすることにこだわって交渉を行い、それを実現したのです。

結果、限界はありましたが江戸幕府の交渉陣は、オランダを通じた情報収集力とその分析によって、これまでは存在しなかった「交渉条約国」という新しい国際政治ルールを確立します。

江戸幕府の交渉陣によって、日本は国際社会へのソフトランディングに成功したのです。

主な参考文献


加藤祐三『黒船異変ーペリーの挑戦ー』(1988年、岩波新書)

加藤祐三『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)

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