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参勤交代の本当の目的とは?

今回のテーマは

参勤交代の本当の目的とは?

です。

みなさんおそらく、

参勤交代というのは幕府が大名の力を削ぐために、意味のない江戸と領地の往復を強制させたもの。

というイメージをお持ちなのではないかと思います。
しかし最近の研究によると、参勤交代が行われた理由はちょっと違うのだそうです。

では参勤交代はなぜ行われたのでしょうか?

参勤交代の本来の目的

京都府立大学の藤本仁文さんの研究によると、

参勤交代の本来の目的は

幕府の「御恩」に対して、大名が幕府を守護する「奉公」にあたるもの

なのだそうです。

徳川吉宗の行った享保改革のブレーンだった荻生徂徠という人が書いた『政談』という書物には、

「総じて大名の第一とすべき事は、家中の治め民の治めよく、身上すりきらず、武備を失わず、末永く参勤交代を務めて、上を守護し奉る事也」

とあります。

つまり参勤交代は大名が意味なく江戸に出張しているのではなく、

1年交代で江戸で色々な役目を果たすため

に行っていたのです。


参勤交代のルーツは鎌倉時代

参勤交代のルーツはじつは、鎌倉時代までさかのぼります。
幕府から御家人に対して土地を与えたことに対する、

主君と家臣の見参式

がルーツなのだそうです。

室町時代は守護大名は京都に住むことが決められており、将軍の許しなしには自分の国元に戻ることは許されませんでした。

応仁の乱後、そのルールはいったん崩壊します。

しかし豊臣秀吉が聚楽第を完成させると、徳川家康や前田利家、上杉景勝、伊達政宗といった大名は聚楽第の近隣に邸宅を造り、京都と領地を往復するようになりました。

江戸幕府が開かれてからも、加賀の前田家は、慶長7(1602)年に前田利家の息子の前田利長が江戸に出向いたり、前田利家の奥方である芳春院(まつ)が江戸に出向きました。

そして約30年後。

寛永11(1634)年には大名の妻子はみな江戸に引き移るように命じられます。

その後、3代将軍の徳川家光が寛永12(1635)年に武家諸法度を制定し、ここで初めて参勤交代の制度が決められました。
これまでは時の権力者が好き勝手に行っていたものを、ルール化することにしたのです。

参勤交代の費用〜加賀藩の参勤交代の事例から〜

では、実際に参勤交代ではどれくらいの費用がかかっていたのでしょうか?
加賀藩の参勤交代の事例を挙げてみます。

加賀藩の文化5(1808)年の参勤交代の費用は、銀332貫466匁(金5541両相当。1両=60匁計算)

現在価値でざっと4〜6億円くらいでした。

*現在価値の計算は真面目に考えると結構難しい問題なのです。
計算方法によって1両=6万円から32万円まで幅がありますが、あいだをとって今回は計算しています。日銀の貨幣博物館のページを参照するのがオススメです。

単純に4〜6億と聞くと、ものすごい額だと確かに思います。

しかしです!

加賀藩の参勤交代の年間の予算に占める比率で見てみると、ちょっと様子が変わります。
寛政3(1791)年の加賀藩の年間予算を見てみると、なんと銀9226貫もあるのです。

加賀藩の参勤交代の経費は銀332貫ですから、

年間予算全体の3%

程度しか占めていないのです。
消費税よりも少ない額だったのです。

では、もっとも経費がかかっていたのはどこなのでしょうか?

それは江戸で役目を果たすための予算です。
同年の江戸での予算は銀4876貫(参勤交代費用含む)。

じつに年間予算の50%以上が、江戸で役目を果たすための経費として計上されてたのです。
じつはこれこそが大名にとって問題だったのです。

参勤交代の決まり事

ところで、参勤交代はやみくもに行われていたのではありません。
いくつかの決まり事がありました。

まずひとつは、

軍事的な空白をつくらない

ということです。

例えば以下のような感じです。

1、紀州藩や加賀藩が江戸にいるときは、尾張藩や薩摩藩は領地にいる。
2、大聖寺藩や福井藩が江戸にいれば、富山藩は領地にいる。

御三家や外様の大藩などはペアを組んでいて、両方が江戸に来たり領地にいるということがないようにしました。

また、北陸など地域ごとにグループが組まれていて、常に必ずどこかの藩が領地にいるようにすることで、一揆の鎮圧などに対応できるようになっていました。

もうひとつは

大名の役目の引き継ぎ

です。

同じ役目を引き受けている大名同士は、領地側で引き継ぎをしてから参勤交代をするという決まりがありました。
ですので、勝手に自分たちで参勤交代の時期を決めることはできず、必ず幕府に申請をしなくてはいけませんでした。

享保改革の制度変更

徳川吉宗は享保の改革で、参勤交代の制度を変更しました。

それを上米の制といいます。

これは大名は江戸での費用がかさんで大変だろうから、江戸にいる(役目を果たさなくてはいけない)期間を1年から半年に縮めましょう。国許(領地)に1年半いて良いですよ。という制度です。

そのかわりこれまで大名に委託していた、江戸や大坂・京都などの大都市の消防や河川改修などの公共事業は、基本的に民間に委託していくようになります。
町火消などはまさにその事例です。

このように吉宗は行政の民営化を行っていき、大名の負担を軽くしようとしました。

もちろん、だからこれだけくださいね。
ということで1万石につき100石の米を幕府に上納させてはいるのですが・・・。

 本当に意味のない制度へ

さて享保改革の後、上米の制は終了し元の制度に戻ります。

享保改革の後は田沼意次の時代になりますが、この時期から本格的に幕府の財政状況は悪化していきます。

そうすると幕府にお金はありませんから、この頃にはまた大名の負担を増やす政策がとられます。

幕府にお金がないなら大名にやらせればいいじゃない

ということです。

こうなると大名はいろんな役目を与えられ過ぎるので、役目を期限内に終えられない大名も出てきます。
そうすると参勤交代が期日通りに行われなくなり、引き継ぎしようにも大名本人が間に合わない!といった事態が発生しだしました。

そしてそれをなんとかしようにも幕府にその力はなく、だんだん参勤交代の制度はルーズになっていきます。
しまいには病気を理由に役目を果たさなくなったり、藩主が江戸にいたいから参勤交代をしない。
なんてことも起きだすようになりました。

こうして本当に参勤交代は意味のないただの江戸と領地の往復になっていき、幕末・明治維新へと向かっていくのです。

文責:安藤竜(アンドリュー)

主な参考文献

藤本仁文「参勤交代制の変質」(『洛北史学』14号、2012年)


丸山雍成『参勤交代』(吉川弘文館、2007年)


山本博文『参勤交代』(講談社現代新書、1998年)

藤井譲治編『日本の近世③支配のしくみ』(中央公論社、1991年)

荻生徂徠『政談』(岩波文庫、1987年)

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