徳川家康はなぜ本拠地を江戸にしたのか?
今回のテーマはこれです。
徳川家康は元々、現在の愛知県岡崎市の出身です。
天正18(1590)年7月に、北条氏の本拠地である小田原城が落城しますが、すぐに豊臣秀吉の指示で徳川家康は関東へ転封させられます。
その際、普通なら北条氏の本拠地だった小田原城にそのまま入ればよいのに、徳川家康は小田原城の支城にあたる江戸城に入ることに決めるのです。
同時代の史料「石川正西聞見集」や徳川吉宗の頃に書かれた「岩淵夜話」という書物によると、家康が入ってすぐの江戸城の玄関は、舟板3・4枚を並べただけのみすぼらしい城だったそうです。
また城下町も大手門の外側にかやぶきの家が100軒ある程度。
城の東側は湿地帯で、萱(かや)の原っぱが広がっていたとか。
なぜ小田原でなく、そんなへんぴな田舎町を本拠地にしなきゃいけなかったのでしょうか?
こたえ
それは豊臣秀吉がそうしろって言ったからです。
以上。
で、終われれば良いのですが・・・
ではなぜ豊臣秀吉はそんな指示を徳川家康にしたのでしょうか?
江戸時代から戦前くらいまでの説では、
実力者の家康を少しでも遠くに置きたかったから。
関東で一揆が起きることを見越して、守りの弱い江戸に住ませたかった。
水運が便利なのを見抜いた豊臣秀吉が徳川家康に助言した
などの説がありました。
また戦後では徳川家康が江戸を選んだ理由として、
北条氏の領地をまとめるには江戸が便利だった
東国の水運と太平洋の海運との関連を重視した
経済に詳しい側近(本多正信、伊奈忠次など)の助言があった
などの説が出されました。
とんでもな説としては、江戸城から故郷の富士山が見えたからなんてのもあります。
江戸城は本当にみすぼらしかったのか?
最近の研究成果を見ると、そもそも江戸城は本当にみすぼらしかったのか?
という疑問が出てきます。
江戸城は天正11(1583)年の段階で、北条氏の前当主である北条氏政が入城します。
そして小田原合戦の時には、城代だった遠山氏が1000騎で守りを固めていました。
当時の北条氏は騎馬武者1人につき、旗持ち1人・鉄砲持ち1人・槍持ち2人が一緒にいることになっていたと言われるので、合計5000人が江戸城にいたことになります。
5000人も兵士が入っている城が、玄関に舟板3枚なんてことあり得るでしょうか?
また北条氏の頃から、江戸城を中心に岩槻(埼玉県)、関宿(千葉県)、佐倉(千葉県)の支城網が出来ていました。
ほか小田原合戦中には、開城後には江戸城に豊臣秀吉の休憩所をつくる計画もあったようです。
実際の江戸城は徳川家康が入城する前から、立派なお城だったことが想像できるのです。
では、なぜみすぼらしく書かれたのか?
では、なぜ江戸時代の史料にはそのようなことが書かれているのでしょうか?
岡野友彦さんは同時代史料、「石川正西聞見集」の他の記事に注目しました。
他の記事をよく見ると、年配の方の昔の苦労話の記録といった要素が強いことに気がついたのだそうです。
つ、ま、り
「昔は貧乏だったが、みんな一所懸命仕事して心は豊かだった。それにひきかえ今の若いもんは・・・」
的な史料だったことが想像されるというのです。
だから自分たちが頑張ったことを強調するために、色々盛っている記事が多く、当時の江戸城の様子についても、かなり盛られているのではないか?
と考えられるわけです。
また、徳川吉宗の頃の史料「岩渕夜話」については、徳川吉宗の事情が反映していたと考えられます。
徳川吉宗は紀州藩主から将軍になったこともあり、これまでの将軍と異なる血筋です。
ですから徳川家康との血のつながりをアピールする必要があり、その流れで徳川家康の功績も今まで以上に盛る必要がありました。
そこで、この史料もぼろぼろの江戸城を立派にした家康というストーリーを作るために、当時の江戸城をみすぼらしい城という設定のままにしたのだと考えられるのです。
文責:安藤竜(アンドリュー)
主な参考文献
竹井英文「徳川家康江戸入部の歴史的背景」(『日本史研究』628号、2014年)
岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)
北島正元『江戸幕府の権力構造』(岩波書店、昭和39年)
足利健亮『地図から読む歴史』(講談社学術文庫、2012年)
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