松平不昧に学ぶ文化都市・松江の作り方(後編)

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
前編では、松平不昧の父、宗衍(むねゆき)の行った「御趣向の改革(延享の改革)」について述べました。
*前回の記事
【歴史トーク】松平不昧に学ぶ文化都市の作り方(中編)
この改革は結局成功せず、宗衍(むねゆき)はその責任をとって36歳で隠居することになります。
明和4(1767)年、松平不昧は家督を継ぎ、さっそく家老の朝日丹波郷保とともに「御立派(おたては)の改革」をスタートさせます。
「御立派(おたては)の改革」は前期と後期に分けられます。
前期の改革は行政改革が中心
まず行ったのが大量の借金の返済方法の交渉です。
大坂などの藩外からの借金は当時約50万両ありました。
とても返済できる金額ではありません。
そこで借りた元金だけでも70年かけて返済する約束をとりつけます。
つぎは藩内ですが、すべての個人・法人間での貸借契約を無効にするという大胆な法律を出し、一気にかたをつけてしまいました。
つぎは行政改革です。
まずは藩の支出を減らします。
支出の多かった江戸屋敷では無駄な贈り物を廃止しました。
ほか藩士約3000人中、968人が役職をはずれ役職給の支給を減らします。
また領地の村では大庄屋という農民の代表が世襲で決まっていました。
しかし彼らも人員入れ替えをして、まったく新しい農政を進めていったのです。
結果、田沼意次政権が転覆する原因となった天明の飢饉も、松江藩は蓄えを放出することで乗り切ることが出来たのでした。
後期、不昧公の時代は積極財政政策
江戸の中央では松平定信が失脚し、寛政改革が終了した3年後の寛政8(1796)年、松平不昧は満を持して親政を行います。
そのときの取り組みは父、松平宗衍(むねのぶ)の行った殖産興業政策を本格的に花開かせることでした。
主には以下のような内容があげられます。
例えば、奥出雲のたたら製鉄の経営安定化や鍋釜の製作。
木綿産業や古手と呼ばれる古着を北前船を通じて日本海沿岸地域へ輸出。
ロウはぜを使ったロウソクの製造
朝鮮人参を長崎経由で清国(今の中国)へ輸出
このように藩内の特産品を輸出することで、藩の収入を大幅にアップさせることに成功するのです。
この取り組みは松平不昧の死後も続き、改革がスタートしてから74年後。
天保12(1841)年に松江藩はとうとう借金をすべて返済することになるのです。
主な参考文献
乾隆明『松江ふるさと文庫3 増補改訂版 松江藩の財政危機を救え』(松江市教育委員会、2008年)
石井悠『シリーズ藩物語 松江藩』(現代書館、2012年)
道重哲男・相楽英輔編『街道の日本史38 出雲と石見銀山街道』(吉川弘文館、2005年)
『水の都市松江』(島根県松江市観光ガイドブック、松江観光協会)
「松平不昧公ゆかりの茶室明々庵」(明々庵パンフレット)