まれの舞台!加賀藩奥能登の揚げ浜式製塩と塩専売制とは?(前編)

奥能登(輪島市・珠洲市など)の塩は揚浜式で製造されます。
この製塩方法は本当に昔ながらの手法で、普通の塩よりもミネラルが多くとても美味しいお塩です。
*揚浜式製塩についてはこちらを参照してください。
奥能登の揚げ浜式製塩は江戸時代初期、加賀藩が専売制を行うことで発展。
この塩専売制の利益が加賀藩初期の繁栄を支えました。
今回はその内容について。
まずは加賀藩の塩専売制の時代背景から解説していきたいと思います。
寛永4年、奥能登2郡が加賀藩の直轄地となる
加賀藩の塩専売制を語る上でまず理解しておいて欲しいことは、寛永4(1627)年に行われた珠洲郡(すずぐん)・鳳至郡(ふげしぐん)計8万石の加賀藩直轄地化です。
それまで珠洲郡・鳳至郡には加賀藩士の領地が多数ありました。
しかし、このときに能登に領地を持っていたほとんどの加賀藩士が、越中国(富山県)に領地替えされました。
なぜ突然、こんなことになったのでしょうか?
そもそもの原因は大坂の陣!
この頃、加賀藩では藩士の領地での年貢が藩の直轄地に比べて高く、藩士の領地の農民の不満が高まっていることが問題になっていました。
なぜ当時の加賀藩士はそのようなことをしたのでしょうか?
もちろんそこには、そうしなければならない理由がありました。
まず加賀藩士すべての財政が悪化していたことがあげられます。
それはなぜか?
理由は大きく2つあります。
まずは当時、大坂の陣が起こって加賀藩前田家も参戦したことです。
(大河ドラマ「真田丸」では真田幸村に撃退されてしまいましたが・・・)
なにせ加賀から大坂への遠征です。 当時の藩士すべてが自前で参加したので、大変なお金がかかりました。
もうひとつの理由は大坂城再築役の負担です。
大坂夏の陣が終わると、燃えてしまった大坂城を江戸幕府は改めて再建します。
その費用を加賀藩も負担しなくてはなりませんでした。
このような多大な出費がかさんでいたため、当時の加賀藩士の財政は一気に悪化したのです。
この時期、5500石の領地を持っていた加賀藩主の一族の前田利貞ですら、領地返上願いを藩に提出したくらいだったので、もっと下層の藩士はなおさらだったと考えられるのです。
結果、加賀藩士の領地で年貢がどんどん高く設定され、農民が生活できなくなるということが発生しました。
領地替えの本当の狙い
ここまで見ると、加賀藩は高い年貢を払わされて苦しんでいる農民を助けるために、奥能登の2郡を直轄地化したように考えられます。
でも、実際はそんなに単純ではありません。
あくまでもこれは奥能登の2郡を直轄地化するため、奥能登に領地を持つ家臣を越中国(富山)に領地替えさせるための方便でした。
あくまで加賀藩は奥能登の塩の利益を藩が独占するために領地替えを行ったのです。
当時の武士は基本的に領地に土着し、領地の経営を行う存在です。
現在の会社に例えるなら、社員一人一人が独立採算制で稼いでたようなものです。
だから藩として統一的な領地経営ができませんでした。
加賀藩としては、そのような個人プレイが横行する政治体制から、チームとして領地経営をする体制に移行したい。
そのために、あえていいがかりをつけて領地替えを命じたのでした。
こうして、私たちが今現在イメージする武士像(城下町に住み、藩から給与を支給される)の通りの武士が生まれるのです。
文責:安藤竜(アンドリュー)
主な参考文献
蔵並省自『加賀藩政改革史の研究』(世界書院、昭和48年)
長山直治『加賀藩における塩専売制初期の塩手米について』(『北陸史学』25号)
長山直治「近世能登製塩における生産構造について」(『珠洲市史』昭和55年)
原昭牛『加賀藩にみる幕藩制国家成立史論』(東京大学出版会、1981年)
見瀬和雄『幕藩制市場と藩財政』(巌南堂書店、1998年)
山本博文『参覲交代』(講談社現代新書、1998年)
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