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まれの舞台!加賀藩奥能登の揚げ浜式製塩と塩専売制とは?(中編)

【歴史トーク】江戸時代初期の特産品流通〜加賀藩の塩専売制〜(前編)

前編でのべたように、江戸時代初期の加賀藩は、

「能登に領地を持つ藩士の政治が悪い!」

と無理やり難くせをつけて藩士を越中に領地替えすることで、奥能登の塩の利益を独占することに成功します。

こうして行われたのが塩の専売制度です。


具体的には塩手米制度という名称で行われました。

 

塩手米制度ってどんなもの?

塩手米制度とは、奥能登で製造された塩はすべて藩が米と交換するという制度です。

年暮れから翌年の2月〜7月にかけて、藩が米を塩士(塩の製造者)に貸与し、2月〜7月にかけての塩の藩への上納で相殺しました。

この米は基本的に奥能登から支払われた年貢米があてられました。



能登は山がちなため、田んぼが少なく米の収量も少なかったので、この制度は塩士にとっては、とてもありがたいものでした。

また、加賀藩は穴水の中居村に当時たくさん住んでいた鋳物師(鉄製品の職人)に仕入れ銀を貸付けて、塩釜を作らせます。そして藩はその塩釜を鋳物師から買い上げて塩士に貸し付けるなど、塩士の塩田経営のスタートアップを援助しました。

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*中居の鋳物師について書いた記事はこちら
【歴史の小ネタ】江戸時代、能登中居の鋳物師について

ほか、当時百姓を対象に米の貸付制度があったのですが、その支払いが出来ない場合は製塩用の薪や炭などの燃料を差し出しても良いということにして、塩田経営がスムーズにいく環境整備を行いました。

結果、奥能登の塩の生産量は寛永期に19万6000俵だったのが、明治初期には51万1439俵にまで拡大するようになります(ちょっとデータの期間の空きがありすぎますが・・・)。


*ちなみに、このような塩手米制度は奥能登だけだったこともあってか、近世前期は越中や小松の安宅など加賀藩領内のけっこう広い範囲で製塩が行われていたのですが、18世紀にはほぼ奥能登のみでしか製塩は行われなくなります。

 

奥能登の塩の販売状況

奥能登の塩は、主に加賀藩領内の主要都市(金沢・氷見・高岡など)で販売されました。
塩の販売金額は塩士(塩製造業者)と交換した米の販売額の約1.9倍で販売されました。

ですので、加賀藩はぼろもうけ。

さらに、一部は北前船を利用して、宮腰港から新潟や酒田(秋田県)などにも約5万俵が販売されました。

その収益は年間で銀約1000貫といわれ、これは加賀藩の年間予算の約10分の1にあたります。

この収益は江戸へまわされ、江戸藩邸での財政支出にあてられました。

 

塩士(塩製造業者)の経営

塩士は高持(たくさん田んぼをもっている)の百姓が中心で、塩浜も貸借ではなく、自分の土地であることがほとんどでした。

農業と塩業の多角経営を行っていたといわれています。

しかし、浜士(塩田労働者)を雇って大規模経営をしていたというよりは、家族が浜士となる家族経営が主流でした。
ちなみに、1枚の塩田に男の浜士1人、女性の浜取2人、補助役1人の計4人というパターンが多かったといわれています。

*後編につづく

文責:安藤竜(アンドリュー)

主な参考文献

蔵並省自『加賀藩政改革史の研究』(世界書院、昭和48年)
長山直治『加賀藩における塩専売制初期の塩手米について』(『北陸史学』25号)
長山直治「近世能登製塩における生産構造について」(『珠洲市史』昭和55年)
原昭牛『加賀藩にみる幕藩制国家成立史論』(東京大学出版会、1981年)
見瀬和雄『幕藩制市場と藩財政』(巌南堂書店、1998年)

山本博文『参覲交代』(講談社現代新書、1998年)

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