江戸時代、能登中居の鋳物師について

以前、奥能登の揚げ浜式製塩について書きました。
加賀藩は寛永4(1627)年以降、奥能登の中居村という所にいる鋳物師に塩を焚く釜を作らせ、塩士たちに貸与していました。
*【歴史トーク】江戸時代初期の特産品流通〜加賀藩の塩専売制〜(中編)
今回はその釜の生産の情況について書いてみたいと思います。
塩釜の種類
この塩釜の耐久年数は約30年。
近世の前期は、口径4尺5寸、深さ1尺6寸ある十鍔釜と呼ばれる鍋型のものが中居で作られていました。
しかし江戸時代後半の寛政年間ごろに、口径が1メートルか1.8メートル、深さ20〜30センチ程度の浅釜と呼ばれる高岡(富山県)産の塩釜が普及するようになります。
*これが浅釜ということですね。
中居産鋳物の縮小と高岡産鋳物の発展
当初北陸の鋳物は、能登は中居、越中は高岡のものが流通していました。
しかし18世紀後半頃には、高岡産の鋳物が能登へ進出・北上するようになります。
そして幕末頃には、能登の南部はほぼ高岡産鋳物になり、中居の鋳物は奥能登にある珠洲郡と鳳至郡だけにしか流通しなくなっていくのです。
高岡は製品問屋や鍋屋などの商業資本が発達し、生産と流通が分業化されていました。
そして鍋屋と呼ばれる商人が、貸鍋・貸釜業(当時、塩釜だけでなく、一般の鍋・釜もリースだった)を行うようになりました。
しかし能登では鋳物師がそれぞれに貸鍋・貸釜業を営んでおり、生産と流通が未分離のままでした。
結果、高岡に比べ営業力が弱く、高岡の商業資本に敗北。
勢力を縮小していくことになるのです。
参考文献
五十川伸矢「能登の湯立釜と中居の鋳物生産」(神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会編『奥能登と時国家 研究編2』平凡社、2001年)