1. HOME
  2. ブログ
  3. 【歴史トーク】江戸時代、土地を持たない農民は本当に貧しかったのか?

【歴史トーク】江戸時代、土地を持たない農民は本当に貧しかったのか?

江戸時代の農民というと、

aizutenmei

飢饉や、

9112d1dff6c8e1a8b0b98537fc08b6e855caf4b51429536304

一揆。

とにかく貧しかったというイメージが強いです。

ましてや土地を持たなかった人々の暮らしというと、地主から土地を借りて、せっかく作った米も年貢と地主への支払いで全部奪われて、米を作っているのに自分では一切食べられず、今では鳥のエサになっている粟(あわ)や稗(ひえ)しか食べられない・・・

なんていうのが定番で、今でも結構そのイメージのままという人は多いようです。

決してそのイメージが間違っているとは言いませんが、最近の研究ではまたちょっと違った江戸時代の村人像が浮かんできているようです。

同じ身分の人たちでも、多種多様な姿がありました。

今回は泉雅博さんの研究から能登の事例をご紹介します。

土地を持たない農民の名称

全国的には土地を持っている「本百姓」に対して、「水呑百姓」という名称で呼ばれていました。
そして加賀藩領(加賀・能登・越中)の用語としては、「頭振(あたまふり)」という言葉を使っていました。

寛永2(1625)年が初出で、幕末までこの名称が正式に使われたようです。

「百姓並(ならびに)頭振」

というように、加賀藩は農民、賤民、商人、職人のどれとも異なる存在として「頭振」を分けて理解していました。

ちなみに、どれくらいの人数が「頭振」だったのかというと、能登国の鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡(奥能登と呼ばれる地域)の事例では、住民の約25%が「頭振」だったと言われています。

では

「この2つの郡(奥能登)は貧しい人がいっぱいいたのね!」

と言えるのでしょうか?

実はそうでもなかったのです!

「頭振」ってどんな人? 加賀藩の理解 

その前に、まずは加賀藩が「頭振」をどのような人と理解していたのか確認してみましょう。

これは史料が残っています。

それによると、基本的には日雇いで働く人々で、わら細工や年季奉公、譜代化(使用人)、山方(薪や炭焼き)・浜方(製塩作業員)、女子は布稼ぎなどをしている人々を「頭振」と加賀藩は理解していました。

なぜわざわざこのような古文書が残っているかというと、加賀藩は「頭振」を武家奉公人として雇用することをもくろんでいたからです。
武家奉公人というのは、藩や武家屋敷で働くアルバイトのようなものです。

例えば江戸時代、加賀藩は参勤交代で多くの荷物を運ぶ人が必要でしたが、一時的な仕事なので武士=正社員ではなく、武家奉公人=アルバイトとして運んでくれる人がたくさん欲しかったのです。

加賀藩は慢性的な武家奉公人=アルバイト不足が問題だったようで、必要なときにすぐ雇えない本百姓ではなく、派遣社員・フリーターのような存在の「頭振」がどれだけ領内にいるか把握しておく必要がありました。

実際の頭振ってどんな人? 加賀藩の生業調査の結果から

延宝7(1679)年に行われた、加賀藩の「頭振」生業調査(加賀国加賀郡2,580人対象。不明91人)によると、上記のような加賀藩の理解の通りの生業についている人は798人で、約3割程度しかいませんでした。

実際はかなり多様な生業についていたのです。

具体的な事例をあげていくと、

 武家奉公人(113人)、寺家奉公人(6)、町方奉公人(41)、里子奉公人(247)、舟水子奉公人(428)、塩師奉公人(4)、諸職人(大工、木挽、桶屋、石切、道場、かわらやき、紙すき、うすのめきり、一銭すり、伝馬、箕師、いしや)(79)、塩師(23)、猟師(156)、船持(105)、商売人(油売、茶売、かせかい、こたね売、酒屋、他国商、四十物、木綿売、ちゃせんうり、八百屋物、中買、室や(糀)(255)、
請作一通にて毎年渡世仕申者(126)、馬借持(6)、病身者・かたわもの共(102)、塩いわし、ざる振、縄こも、むしろ、くつ、わらんぢ、やまかせぎ、少分之請田仕、日用にも罷出申者(798)、不明(91)

今でいうと契約社員のような存在の「奉公人」がかなり多いですし、自営業者の「商売人」も255人います。
「職人」は79人、「猟師(山だけでなく、海の漁師も当時はこの字を使いました)」は156人。
中には「塩師」や「船持」など、ちょっとした規模の企業経営者もそれぞれ23人、105人と、結構な数がいたことがわかります。

つまり「頭振」というのは貧しくて土地が持てない人だけではなくて、逆に「村」に住んでいても他の仕事についているので農業をする必要がないという人も含まれていたのです。

奥能登は「頭振」が多い=奥能登は貧しかったと単純に考えてはいけないのです。

「頭振」が多い地域はどこ?(奥能登の事例)

奥能登で「頭振」の人が住んでいる率が30%以上の村の分布を見てみると、ほぼ海辺に集中しているのだそうです。

そして、頭振の多い村の特徴は年貢率が高いこと。
最大収穫した米の88%が年貢で持って行かれたようです。

また多種多様な役負担も特徴です。

海関連でいうと、外海船役、猟船役、網役、起網役、引網役、春網役、釣役、鱈役、烏賊役、刺鯖役、鰤拾歩一銀、くしこ役、このわた役、入猟船役、間役銀、嶋役、舳倉島七ツ嶋運上銀。

川関連は川役。
山関連は山役、鳥役、漆役、蝋役。

商工業は室(糀)役、紺屋役、油小売役、油筒役、針金役、素麺役。

町関連は運上銀、地子銀、町夫銀などの加賀藩に対して務めなくてはいけない役がありました。

それだけ税金を払う力が強い、高額納税者がたくさんいたということがわかります。

また港湾機能を持つため、米の蔵が設置されてました。

ほか、宿立て、町立てがされた村が多いのも特徴です。

宿立てや町立てというのは、村なんだけど人口も増えているし、宿場町扱いですよ、町扱いですよと特例を認められることです。

宿立てされた村は、剣地村、道下村、門前村、皆月村、飯田村、正院村、蛸島村、松波村、小木村、鵜川村、中居村などがあります。

町立された村は、輪島河井町、輪島鳳至町、宇出津新町など。

「頭振」は貧しい寒村ではなく、都市的発展を遂げた村に集中して住んでいたのです。

時国村の事例

時国村とは、能登で有名な観光地の白米千枚田をさらに奥にちょっと車で走った辺りにある村です。
10930991_806026599481713_1908471585849496221_n
*白米千枚田の風景

平清盛の奥さんの平時子さんの弟で平時忠という人が、能登に流された時に住んだ場所にあたります。
ちなみに平時忠さんは「平家にあらずんば人にあらず」というセリフを言ったことで有名な人。

PDVD_041_20120802152617
2012年の大河ドラマ「平清盛」では森田剛くんが演じていました。

ここに、芝草屋さんという「頭振」の人がいたのですが、この人は譜代下人(使用人)を22人抱えていて、回船業経営を行っていました。

ほかにも多くの回船業者が時国村には存在していましたし、糀屋や金融、塩業を営む経営者も多数いたことがわかっています。

また、奥能登では経済的に豊かな人しかできない事業(貴重な米を使うので)である酒造業を営む家が多く、珠洲郡・鳳至郡で元治元(1864)年には68軒もの酒造業者がいたようです。

ここまでくると「頭振」=都市住民という感じで
、実際は経済的に豊かな人も非常に多かったのです。

では、なぜ「頭振」は貧しいというイメージがついたのか?

明治時代になり物流の主流が、海上輸送の北前船から陸上輸送の鉄道に代わるようになります。

そうなってくると能登の海辺は物流ルートから完全に離れてしまい、江戸時代までは裕福だった能登の人々が経済的に苦しくなりました。

結果として今現在、私たちがイメージする「頭振」の人しか能登にいなくなってしまい、いつしか裕福だった「頭振」の人たちがいたことも忘れ去られてしまったのではないでしょうか?

参考文献


泉雅博『海と山の近世史』(吉川弘文館、2010年)

関連記事