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江戸時代の京都。公家社会に生きた人びと

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

金沢に住んでいるとよく聞く言葉に、

「金沢は小京都ではない」

「京都はお公家さんの文化、金沢は武家の文化」

といったものがあります。

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*雑誌でこんな特集も組まれました。

イメージではなんとなく分かるのですが、改めて思うのが意外と私たちはお公家さんについての歴史を知らないということ。
雑誌の表紙も別に公家の写真ではなく舞妓さんなんですよね。

そこで、今回は江戸時代京都の公家社会に生きた人びとについて、松澤克行さんの研究を中心にご紹介します。

天皇

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*後水尾天皇像(Wikipediaより)

江戸時代の天皇はみなさんご存知のように、江戸時代の初めと幕末以外は江戸幕府にほぼほぼ管理され、実際の政治的な権限はほとんどありませんでした。

天皇自身は皇統意識や統治者意識を持ちつづけていたものの、江戸幕府からは儒学や歴史を学び、あくまでも朝廷・公家社会だけの君主としての役割を果たす事を期待された存在に過ぎませんでした。

領地は禁裏御料と呼ばれ、約3万石ありました。
しかしこの禁裏御料、幕府役人の京都代官が管理していました。
そして禁裏御所の金勘定も幕府の旗本の禁裏付が統括するなど、自分の領地の統治もできない状況にあったのです。

摂家(せっけ)

摂家(五摂家、摂関家)は一度、豊臣秀吉によって関白職を奪われ、存在感を無くしていました。
しかし江戸幕府の力を背景に、もういちど関白を頂点にして公家社会をまとめることになります。

摂家は関白だけでなく、左・右・内大臣すべてを独占し、儀式の席次も親王より上となるなど江戸時代を通じて高い権威を持ち続けました。

その権威から、摂家は次第に一般の公家を家礼(けらい)として自分のグループに組み込むことを始めます。

一般の公家は、このグループに入る事で官位を上げてもらったり、文化的な儀式での礼儀作法を教えてもらったりするようになり、次第に他のグループには教えない!といったこともされるようになりました。

儀式での無作法は即失職につながるため、これは非常に重要な問題で摂家以外の公家はほぼほぼどこかのグループに所属するようになります。

そして、とくに近衛家と一条家は儀式での作法に詳しい当主が出たために、家礼を多く抱え、その勢力を誇ることになりました。

堂上公家(とうしょうくげ)

堂上公家は摂家には劣るものの、公家社会では上流階級のにあたる人びとです。
原則参議以上の官職、または従三位以上の官位を与えられ、公卿(くぎょう)となった人たちを指します。
清華家(せいがけ)9家、大臣家、名家がありました。

江戸幕府崩壊時には137家ありました。

本来はこの半分くらいだったのですが、江戸時代初期に天皇のほか上皇や法皇など天皇経験者が最大4名存命している時期があり、それぞれ独立した御所を持っていました。

結果、各御所に仕える公家が余分に必要になり、2・3男が独立して新家をたてたため、倍増することになりました。

しかし、幕府からの知行があまりもらえず(30石3人扶持が多い)、官位の昇進も旧家に比べて不利だったため、新家は江戸時代後半になると借金に苦しめられる事になります。

18世紀半ばで新家は65家あったようです。

堂上公家は基本的に「家道」に励む事を奨励され、例えば西四辻家なら「雅楽」、土御門家なら「陰陽道」、飛鳥井家なら「蹴鞠」といったように、その家の「家道」を継承することが存在意義だったそうです。

また武家伝奏(摂家以外から2人)、議奏(羽林家・名家から4〜5人)は幕府から直接役料をもらって朝議に参加しました。

世襲親王家

世襲の宮家は鎌倉時代に始まりますが、戦国時代まで残ったのは伏見宮家のみでした。

江戸時代にはその伏見宮家にプラスして、八条宮家(常磐井宮→京極宮→桂宮)・高松宮家(花町宮→有栖川宮)・閑院宮家の計4家が世襲の親王家となりました。

この世襲親王家は万が一の皇位継承の控えとしての役割や、徳川家一門に娘を嫁がせる事で家格を高める効果を期待されました。

門跡(もんぜき)

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*京都土産で有名な「聖護院八ツ橋」の聖護院も門跡のひとつです。

天皇家や親王家、摂家などの養子先がない男子や未婚の女子は、ほとんどがお坊さんになりました。
京都やその周辺の天台宗・真言宗の住持(住職)となったのです。

その寺院や住持を門跡と言います。

勤行(ごんぎょう、仏教修行に励むこと)と学問をすることがその役割でした。

平均して1000石くらいの領地を持っていたようです。

とくに輪王寺門跡は幕府の守護神である東照大権現(徳川家康)を祀るため、大名クラスの1万石以上の領地を持っていました。

地下官人(じげかんじん)

地下官人というのは、朝廷の儀式に動員される人びとのこと。
外記方、蔵人方、検非違使、楽人などを指します。

18世紀中期で429名。
1787年には728名。
19世紀中期には1090名となりました。

催官人(もよおしかんじん)、並官人(なみかんじん)、下官人(げかんじん)と3種類ありましたが、催官人と並官人だけが世襲の役職でした。

下官人は世襲ではなく「株」化しており、「株」を所有する町人や百姓がその仕事につきました。

収入は儀式に出仕したときの手当が主でしたが、堂上公家に仕えて給料を得たり、包丁を稼業とする高橋家などでは弟子をとって入門料収入を得たりしていました。

公家の家臣

もちろん公家にも家臣がいて、大きく2つの系統があったといいます。

摂家や清華家(せいがけ)、大臣家などの上層の公家には諸大夫(しょだいふ)・侍(さむらい)という上級家臣がいましたが、それ以外の公家には許されず、雑掌(ざっしょう)が家臣の筆頭となりました。

その違いは官位がもらえるかどうかで、諸大夫・侍は官位がもらえますが、雑掌はもらえませんでした。

ほか、男性、女性、世襲、1代限り、常勤、非常勤、商人が礼金を納めて名ばかりの家臣になるなど、多様な人たちが入り乱れていました。

摂家の二条家(1700石余)で男女100人。

清華家の今出川家(1655石)で男女40〜50人

堂上公家の鷲尾家(180石)で56人

と、領地の石高と家臣数はあまり比例しなかったようです。

女性

女性については、

・他家に嫁入。
・御所で女官として勤務。
・大奥・摂家・大名家で勤務
・出家

などの生き方があったとされます。

意外と武家との交流があったようで、大奥や大名家に仕える事例も多く見られたのだそうです。

まだまだ公家の研究というのは盛んではなく、分からない事も多いのですが、近年少しずつ研究が進んでおり、今後が楽しみな分野です。

参考文献

松澤克行「近世の公家社会」(『岩波講座日本歴史』第12巻近世3、岩波書店、2014年)

吉田伸之『成熟する江戸』(講談社学術文庫、2009年)

 

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