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加賀百万石までの軌跡

金沢は加賀藩百万石の城下町ですが、加賀藩主前田家はいったいどのような経緯で百万石の領地を手に入れたのでしょうか?

意外と知られていない前田家の100万石までの軌跡を、本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮新書、2015年3月)からご紹介します。

関ヶ原の戦いのときは80万石くらい

前田家は前田利家の頃はまだ100万石ではありませんでした。

関ヶ原の戦いのとき前田利家はすでに没し、嫡子の利長が跡を継いでました。

関ヶ原の戦い時の領地は、

前田利長が加賀国の5分の3くらい(20万石超)と越中国(現在の富山県、40万石弱)。

利長の同母弟の利政が能登一国(20万石超)。

計80万石くらいでした。

このとき、加賀国は他に丹羽長重(小松12万石、現在の小松市)、山口宗永(大聖寺5万石、現在の加賀市)、ほか小大名がいました。

関ヶ原の戦いで100万石に!

この状況に変化が起きたのが関ヶ原の戦いです。

西軍の大谷吉継(越前敦賀城主)は北陸の大名に声をかけ、前田家以外はほとんど西軍につけてしまいます。
前田家以外簡単に西軍につけることに成功していることから、本郷和人さんは、秀吉の前田利家対策があったのではないか?
と述べられています。

前田家はこの時点で徳川家の加賀征伐を防ぐべく、前田利家の奥様で前田利長のお母さんの芳春院(まつ)を江戸に人質に出しており、徳川秀忠の次女の珠姫を三代藩主利常に嫁がせる約束をとりつけていたため東軍につかざるを得ません。

前田家はまず丹羽長重を攻めますが、丹羽長重はお父さんの丹羽長秀同様築城の名手で小松城はなかなか落ちません。

そこで大聖寺の山口宗永を攻め、落城させます。

前田家はこのまま関ヶ原に向かうべきところ、大谷吉継の調略にはまってしまいます。

前田家家臣の中川光重が大谷吉継に拘束され、偽の手紙(大谷吉継が北陸をすべて任され、3万の兵を率いて船で金沢城に攻めてきているという内容)を書かされたのです。

前田利長はこの手紙を無視することができず、一旦退却金沢城に向かいます。

このときに丹羽長重とぶつかったのが、北陸の関ヶ原と呼ばれる浅井畷の戦いです。
内容的にはほぼほぼ丹羽軍の勝利といってよく、殿(しんがり)を務めた前田家重臣の長連龍の奮闘により、なんとか金沢城に戻ります。

このように前田軍は関ヶ原の戦いでは大谷吉継にほぼしてやられた形になります。

しかし関ヶ原の戦いで所属していた東軍が勝利。

結果として丹羽長重の小松12万石と山口宗永の5万石を与えられ、加賀百万石となるのです。

参考文献

本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮新書、2015年)

 

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