江戸と明治の新卒採用〜三井家の事例から〜

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
以前、
という記事で、
江戸時代の商家の奉公人の離職率は約7割だったこと。
そして、それは現在の中卒の若者が3年以内に辞める割合とほぼ同じだったことを書きました。
今回は、
江戸時代の商家の奉公人の採用活動ってどんな感じだったんだろう?
ということについて、三井越後屋の事例をご紹介します。
江戸時代三井越後屋の採用試験
まず採用する奉公人の年齢ですが、主に12歳~14歳くらい。
そして基本的には三井越後屋で働いている人の縁者からの採用。
つまり縁故採用がほとんどでした。
そして採用の際、試験などはなく「目見え」と呼ばれる試用期間の勤務状況を見て採用が決まったのだそうです。
「目見え」の期間は当初、手代が10日。子供は30日と決まっていましたが、期間が長いと情がうつってしまうということで手代が5日。子供は15日と短くなりました。
この期間の勤務成績は「目見え帳」に記録され、採用か不採用かが決まったのです。
では、
実際にはどの程度の倍率で採用になったのでしょうか?
江戸時代三井越後屋の採用倍率
ちなみに現在は、就職四季報2016年版によると、掲載企業のうち回答のあった497社の事例から
最高の内定倍率は大手食品メーカーの明治。
事務系総合職は応募者約1万1000人に対して内々定者数は4人。
倍率は2750倍。2位には繊維商社の蝶理(552倍)、3位には乳業大手の森永乳業(533倍)でした。
最低は福山通運の1.5倍。
小売や運輸業界に倍率の低い会社が多いようです。
*「内定競争倍率「高い50社、低い50社」はどこか」
こちらのホームページを参考にしました。
享保6(1721)~享保8(1723)年の三井越後屋の京本店の事例では、
享保6年 採用者18人(受験者21人)倍率1.16倍
享保7年 採用者20人(受験者31人)倍率1.48倍
享保8年 採用者14人(受験者18人)倍率1.28倍
となり、採用率で見ても3年トータルで74%となっていました。
越後屋は小売ということもありますが、縁故採用ということもあって比較的入社は容易だったようです。
現在の小売業と同様に、大量に採用するかわりに大量に離職するという状況が江戸時代の三井越後屋にも起こっていたのでした。
明治時代の三井の人事改革
しかし、明治になると三井はこのような状況から脱却しようと人事改革を行います。
まず月給制度やボーナス制度、休日の整備などにより魅力的な就業条件を整備することで、従業員の離職率を下げると同時に学卒者の採用に力を入れます。
そしてその際には算術や簿記、経済学などの試験を行うようになるのです。
こうして三井は企業イメージを改善することに成功し、より質の高い人材を厳選採用し育成するという採用戦略に切り替えていくのです。