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【歴史トーク】源頼朝像の謎

最近この源頼朝像は、実は源頼朝を描いたのではないのではないか?
という説が出ているのです。
そのため、最近では伝源頼朝像というふうに「伝」の文字をつけて紹介されるようになってきました。

ならばいったい誰の像だというのでしょうか?

源頼朝像の基礎知識

この源頼朝像は京都の右京区にある神護寺の寺宝です。
神護寺三像と呼ばれ、伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像の3種類がセットになっています。

よりとも

こんな感じですね。
では、いったい新説では、これがどうなるのでしょうか?

ただよし

新説では、こうなります。
そう、源頼朝像足利直義像となるのです。

なぜ旧説では源頼朝像ということになっていたのか?

まずは、旧説ではなぜ源頼朝像ということになっていたのか述べていきます。
これまでの通説は一言でいうと

「神護寺略記」という神護寺の寺伝にそう書かれている。

これが最も大きな理由です。
また作風から見てこの絵は鎌倉時代初頭の作品だと判断されていました。
そして神護寺はもちろん今もこの説を主張しています。

*神護寺ホームページ

また戦後、大英博物館で新しい源頼朝像が出現。

上部の賛と呼ばれる文字部分に源頼朝像との記載があったことも説を補強しました。
しかし黒田日出男さんと上横手雅敬さんの研究により大英博物館の源頼朝像は江戸時代中期以降、賛の部分は明治まで時代が下ることが証明されました。
そしてさらに米倉迪夫説が出現することになります! 

米倉迪夫説とは?

1、「神護寺略記」は問題あり

2、表現・構図から伝頼朝像と伝重盛像がセット。あとから伝光能像が加わる

3、神護寺三像と南北朝中期の夢窓疎石像の表現が似ている。制作は南北朝期。

4、伝頼朝像と伝重盛像の太刀の柄に「桐紋」があり、これは足利氏の紋
  源頼朝や平重盛は「桐紋」は使わない。

5、伝藤原光能像と等持院の足利義詮像が似ている。

6、足利直義願文によれば、神護寺に足利尊氏と足利直義の像を足利直義が
  寄進したことが記されている。

7、セット性は足利兄弟だとすれば解決する。

8、2についても子供の義詮があとで加わったとすれば解説が可能。

この米倉説の最大の特徴は6の足利直義願文という文書を発見したことでした。
そして黒田日出男さんの研究によって、米倉説はさらに補強されるのです。

では「神護寺略記」はなぜ源頼朝像と言っているのか?

ここからは黒田日出男さんの『国宝神護寺三像とは何か?』という本から解説していきます。
黒田日出男さんによると、神護寺は戦国時代に荒廃していたのだそうです。
なんと豊富秀吉の時期にはお寺の領地が58石しかありませんでした。
しかしその後、徳川家康によって260石を寄進されます。       

それはなぜか?

源氏長者(源氏のトップ)として征夷大将軍になった徳川家康に、源頼朝ゆかりの寺であることを神護寺がアピールし、再興を狙ったからです。
そのための手段として、江戸時代初期に誰のものか分からなくなっていた肖像画の中から状態のよいものを選び「源頼朝」の像と名付たのではないか?
そして他の2枚は平家物語の舞台としての神護寺をアピールし、参拝客増を狙うために平家物語ゆかりの人物の像としたのだというのです。

神護寺三像の大きさについての謎

また黒田日出男さんはこの神護寺三像の大きさに注目します。
これは肖像画にしては異常にでかいのです。

縦139.4cm 幅111.8cmあり、この大きさは南北朝期まで他に存在しないのだそうです。
また、まったく同じ大きさの肖像画は神護寺の弘法大師像と僧形八幡神像のみなんだとか。

足利直義願文の分析

黒田日出男さんは次に、足利直義願文の分析に入ります。

文章の内容は、

足利直義が征夷大将軍の足利尊氏の像と従三位足利直義の「影像」を神護寺の堂へ奉納する

というもの。

まさにこれに相当する肖像画は、

神護寺には伝源頼朝像と伝平重盛像しかない!

というのです。

そして直義が兄弟の像を奉納した理由として、母、上杉清子の死による兄弟の不和を防ぐためだったのではないか?
と推測するのです。

臨済宗の僧侶、夢窓疎石の影響

また同じく奉納した理由として臨済宗の僧侶、夢窓疎石の影響があったのではないか?といいます。

足利直義は当時、夢窓疎石という臨済宗のお坊さんと政治と仏法について常に議論を交わしていました。


その内容は「夢中問答集」という書物に残されています。

そこでのやりとりで、夢窓疎石は足利直義に

「聖徳太子の政治を見習いなさい」

と語ります。

そして足利直義は、しだいに自身を聖徳太子の生まれ変わりと信じるようになります。
そんなとき、夢窓疎石はあるエピソードを足利直義に語ります。

聖徳太子は達磨大師の弟子南天の生まれ変わりなのです。
そして貞慶という高僧は、聖徳太子と達磨大師のペアの像をお寺に奉納した。

というエピソードです。

聖徳太子の生まれ変わりである(と信じている)足利直義は、

自分も自分の師にあたる人とペアの像を作らなくてはいけない!

と考えるようになりました。
そんなとき、今度は弘法大師と八幡大菩薩のペアの像が神護寺にあるとのエピソードが夢窓疎石によって語られるのです。

それだ!

自分と兄尊氏の像のセットは、弘法大師と八幡大菩薩像を参考にしよう!その結果、両者の大きさも一緒になったのです。
つまり、この足利直義像と尊氏像は、以下の関係になります。

弟子にあたる立場の直義は聖徳太子と弘法大師に見立てられています。

そして師匠にあたる立場の尊氏は室町幕府の初代将軍です。

達磨大師はないにしても、八幡大菩薩像に見立てるにはぴったりの存在だったのです。

つまり、以下のようにこの2つの像は見立てられたものだったのです。

伝源頼朝像=足利直義=聖徳太子=弘法大師

伝平重盛像=足利尊氏=八幡神

最後に伝藤原光能像は?

ときは流れ、足利尊氏と足利直義の仲は直義が40歳の時に悪化してしまいます。
それは直義にずっと生まれなかった長男が生まれてしまったからなのです。
そして空気を読んだ尊氏側近の高師直と直義の争いが勃発します。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)です。

結果、摂津打出浜合戦にて直義は勝利。高師直ものちに死んでしまいます。

しかし、直義の息子如意王はまさかの陣中にて他界・・・

なんの意味もなくなってしまった直義は兄尊氏と話し合います。
結果、直義と尊氏の息子義詮(よしあきら)との二頭体制へ!
そこで、尊氏像をしまって、義詮像を新たに製作・奉納したのです。
しかしその後、直義は義詮によって毒殺されます。

足利直義・尊氏・義詮の仲をいつまでも良くするという目的で飾られていたこの像も、まったく意味をなさなくなってしまい、神護寺の蔵の中へとしまわれてしまったのです。

それが再発見されたのが江戸時代初期。
家康に向けての神護寺再興運動のタイミングです。
そこで身分の高い人だと思われる名無しの肖像画として発見され、新たに源頼朝像して再利用されるようになったのではないか?

というのが黒田日出男説なのです。

非常に説得力のある内容にぐいぐいと引き込まれる本ですので、ぜひ一読をオススメします。

参考文献

黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か」(平成24年、角川学芸出版)

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