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幕末の京都。そもそも、なぜ大名は京都に藩邸を置いていたのか?

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

幕末の京都。

多くの志士たちが、京都の藩邸を舞台に活躍しました。

でも、私はずっと疑問に思っていました。

そもそも、なぜ大名は京都に藩邸を置く必要があったのか?

そして、いったいいつから大名は京都に藩邸を置いていたのか?

今回は、千葉拓真さんの研究をもとに加賀藩の事例から紐解いていきます。

加賀藩京都藩邸とはどんなところだったのか?

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まず加賀藩では京都藩邸に勤める藩士のことを「京都詰人」「京都奉行」と呼び、京都藩邸は「京都御屋敷」か「河原町御屋敷」と呼ばれました。

場所は、京都市歴史資料館のホームページによると、京都市中京区木屋町通御池西南角にあったようです。

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ここです!

*加賀藩京都藩邸の訪問記事はこちら
【加賀藩京都藩邸を訪問!】

加賀藩の京都藩邸ができたのは、なんと寛文元(1661)年の江戸時代初期。

三条河原町の町人地に呉服所三宅庄兵衛を地主の名義にして土地を取得、屋敷を構えました。

京都藩邸は江戸藩邸とは違って、そもそも武家屋敷ではなかったのです。

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加賀藩邸の北には長州藩邸、南には対馬藩邸があり、それらに勤める藩士は計17人。
一年交代の勤務でした。

役職の内訳は以下の通り。

奉行   2人(支店長)
御徒横目 1人(監査役)
算用者  2人(会計担当)
足軽   8人(平社員から主任クラス)
小者   4人(パートさん)

面積は1400坪もありましたが業務の拡大とともに手狭となり、加賀藩はその後3カ所の町屋敷を取得。加賀藩の京都藩邸の規模は拡大していきます。

加賀藩京都藩邸でのお仕事とは?

寛文2(1661)年の職務規定によると、京都藩邸でのお仕事の内容は、

1、節句などの贈答品の物品調達
2、姫君(三代藩主利常の娘、東福門院)と配偶者の八条宮智忠親王の「召料」の管理
3、西国の大名の情報の報告
4、京都藩邸を維持するための金銀や米などの物資の管理(大津や大坂の蔵屋敷と連動)

となっていて、私たちがイメージする幕府や朝廷との外交のような業務はなく、あくまでも経済的な業務が中心でした。

しかし、享和2(1802)年の京都藩邸の業務報告を見ると、

1、京都町奉行や京都所司代との折衝
2、縁戚の公家である二条家の凶事や禁裏(御所)への使者派遣の対応
3、贈答品や呉服の購入
4、京都藩邸の金銀の管理・報告(大津蔵屋敷の会計も京都藩邸が担当)

など、幕府や朝廷との外交も業務に追加されるようになっていきます。

縁組などによって、公家との交際が深まっていったことが原因でした。

公家や寺社との交際

公家との交際は二条家・三条西家・鷹司家などを中心に五摂家や親王家とはほぼすべて、のべ42家の公家とのつながりがありました。

縁戚関係のあった二条家や鷹司家などの公家には助力米(金)を提供することもあったようです。それらの公家から他大名の情報を収集することが業務となっていったのです。

そして、その費用は京都奉行の裁量のもと、大坂蔵屋敷で販売された年貢米で賄われました。

また公家のほかに寺社とのつながりもありました。

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加賀藩の祖、前田利家の奥さんの「まつ」のちの芳春院が建立した京都大徳寺芳春院。

前田利家が尾張に起源をもつことから、尾張の熱田神宮などとも交際があり、これらを加賀藩の京都奉行は管轄していたのです。

参考文献

千葉拓真「加賀藩京都藩邸に関する一考察ーその成立と構造を中心にー」(『東京大学日本史学研究室紀要』第16号)
*こちらから読むことができます。

千葉拓真「京都をめぐる加賀前田家の儀礼と交際ーそのシステムと担い手を中心にー」(『加賀藩研究』第1号)

千葉拓真「加賀藩京都藩邸の構成員と機能ーその職務規定と業務報告を通じてー」(『加賀藩研究』第3号)

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