日本の古典100本ノック! 第4回 海保青陵『稽古談』

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
日本の古典100本ノック!
第4回の古典は、海保青陵『稽古談』です。
*この企画の趣旨についてはこちらを参照ください
海保青陵はあまり有名な人ではありませんが、私自身はとても共感するところの多い儒学者です
前回取り上げた二宮尊徳は、支出をとにかく収入より少なくし、余ったお金を使って貸付などの投資を行うことで財政改善を目指しました。
*前回の記事はこちら
これとはまた違う考え方を二宮尊徳の少し前に提唱したのが海保青陵です。
彼はどうしても支出が増えるのであれば収入を増やすことを考えよ!と訴えたのです。
序文と意訳
稽(けい)は禾(か)に従い、尤(ゆう)に従い、旨(し)に従い、禾は同じようなる長さに、すらりとならびてはえておるものなり。其の内に梅の禾はぬきんでて、別に一本目立つを稽という。尤はけやきものなり。旨はよろしきなり。しかれば稽古とは、古(いにし)へと今とくらべ合わせて見て、古(いにし)へのぬきんでてよろしきことを、かんがえて用(もち)ゆることなり
*一部筆者が書き下し文に直した。
稽古の稽という字は、禾と尤と旨に分けられる。
禾は同じような長さの中ですらりと並んで生えているものだ。その中でも梅の禾は抜きんでている。とくに一本目立つものを稽という。尤は極端なもので、旨はよいということ。
つまり、稽古とは昔と今とをくらべて見て、昔の方が抜きんでて良いことを考えて実行することである。
海保青陵の生きた時代背景
海保青陵が活躍した時代は江戸時代の後半、文化文政期の頃です。
金沢ではちょうどひがし茶屋街が藩公認となった時期にあたります。
江戸時代初期からの様々な仕組みが時代遅れとなり、商品経済の発展に伴って江戸幕府も大名も財政赤字が拡大しました。
天明の飢饉の発生により農村復興政策である寛政改革が行われましたが、倹約の厳しさに耐えかねて江戸幕府は貨幣改鋳によるリフレ政策を実行。
江戸を中心に「東海道中膝栗毛」などの文学や写楽・北斎などの浮世絵といった庶民中心の化成文化が花開いた時期でした。
また地方では特産品の開発が積極的に行われ始め、この時期に改革に成功した藩が幕末に台頭してくるのです。
海保青陵とはどんな人?
海保青陵は地方の百姓の子だった二宮尊徳とは違って江戸生まれの武士階級の儒学者でした。
彼の考え方の基本は、収入を増やす「興利」というキーワード。
そして日本全体のことを論じることはなく、常に藩(地方)が豊かになるにはどうしたら良いのか?を追求した人でした。
彼がもっとも長期間滞在した加賀藩で当時行われていた政策は、緊縮財政・倹約令・江戸入用の削減・借知(武士への給料削減)でした。
しかし彼は、能登の塩などの特産品の生産技術革新と他国への販路の拡大、港湾施設の充実、藩札の発行などによって収入を拡大することで財政を改善し、地域を豊かにすることを目指したのです。
*加賀藩の塩専売制についてはこちらを参照
残念ながら加賀藩では海保青陵の政策がとられることはありませんた。
しかし長州藩で海保青陵の政策は実現し、幕末につながっていくのです。
感想
この序文は『稽古談』という書名の由来について述べています。
一般的に儒学というと、倫理とか生き方を学ぶ学問のように思われていますが、じつはそうではありません。
儒学とは古代中国の歴史を踏まえて、当時の政策を学び現実の政治に活かす学問という要素の方が大きかったのです。
まさに歴史に学ぶことの重要性を説いているのです。
さらにこの文章のあと、海保青陵は言います。
今の政治を語るとき、孔子だの孟子だのの言葉を色々な人が引用するけれど、孔子の時代と孟子の時代は時代背景が違うんだから一緒くたに話されると訳が分からなくなるよね。と。
まさに、私自身が古典を読むときに注意して欲しいと考えていることを江戸時代から言ってくれていたのです。
主な参考文献
塚谷晃弘・蔵並省自校注『日本思想体系44 本多利明・海保青陵』(岩波書店、1970年
蔵並省自『海保青陵経済思想の研究』(雄山閣出版、1990年)