文章におけるストレートとは何か?
歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
先日、福沢諭吉の『学問のすゝめ』を読む読書会のファシリテーターをさせていただきました。
読書会の後の懇親会で、今回の課題本の現代語訳者である奥野宣之さんから聞いたお話。
奥野さんは文章の書き方を教える仕事もされています。
そこで教える内容は、基本的に読み手にいかに読んでもらえる文章にするかということなんだそうです。
だから、読み手はその文章を読んでどう思うかということを考えさせるそうなのですが、これがまたウケが良くないんだとか。
とくに女性に多いのが、
「私って素敵でしょ」
って言う文章が書きたい人。
こんな人は、
「教えて欲しい内容と違う!」
と来なくなってしまうんだそうです。
この話を聞いて思ったのが、
「ああ、奥野さんの文章教室は野球でいうところのピッチャーの配球の考え方を教えてくれるんだ。」
「でも、教えてもらいに来た人は気持ち良くストレートを投げてバッターを打ち取る方法を習いたいんだろうから、そりゃ来なくなるだろうな。」
ということです。
ストレートのスピードが遅いからバッターを打ち取れないなら、配球を考えようというというのはすごく分かるのです。
でも、ど真ん中に快速球を投げ込んで三振を取りたい!
という欲求もすごく良く分かるのです。
やっぱりピッチャーの美学ですよ。
ストレート。
文章でも同じことをしたい!
というのもすごく分かるわけです。
でも、どうすればそんなストレートが投げられるのだろう?
ここ数日、ずっと考えていました。
そもそも文章にとってストレートって何なの?
というところが一番良くわからなかったのですが・・・
つい先日、石川県産業創出支援機構の矢部さんとお話してヒントをいただきました。
矢部さんいわく。
文章にとって変化球というのは、「他人に向けて書くこと」である。
では、ストレートはなにか!
「文章におけるストレートとは自分に向けて書くこと」
であると言うのです。
また変化球が顕在意識なら、ストレートは無意識にあたる。と。
なるほど!
と思いました。
自分自身に納得させるため、深く考えて考えて、掘り下げて掘り下げてようやくたどり着くもの。
その過程で無駄なものがすべて取り除かれた結晶のようなもの。
そんなシンプルなことばがストレートなんだと腹落ちしたのです。
先にあげた奥野宣之さんは、懇親会の席で開高健さんの「玉、砕ける」という作品が本当に無駄のない素晴らしい作品だとおっしゃっていたことをそのとき思い出しました。
そんな作品こそ三振を取れるストレートの快速球なんだろう。
そんな文章、どうやって習うんだ?