【歴史トーク】東京板橋区。加賀藩下屋敷の歴史

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
江戸時代、諸国の大名は江戸に屋敷を持ち、参勤交代で江戸にいる際にはここに住んでいました。
今回は、東京の板橋にあった加賀藩の下屋敷についてのお話。
*参勤交代については以前に書いた記事を参照くださいね。
【歴史トーク】参勤交代の本当の目的とは?
加賀藩の江戸藩邸
加賀藩は日本でも最大の大名でしたので江戸藩邸も多く拝領しており、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷と4カ所に拠点がありました。
それぞれのだいたいの住所を記載すると、
上屋敷:文京区本郷5丁目(東京大学本郷キャンパス)、8 万8482坪
中屋敷:文京区本駒込6丁目(六義園の向かい側)、2万660坪
下屋敷:板橋区加賀1・2丁目、板橋3・4丁目、約21万7000坪
蔵屋敷:江東区門前仲町1丁目、2668坪
ということになります。
下屋敷の歴史と使われ方
板橋にある加賀藩の下屋敷は、延宝7(1679)年に5代藩主前田綱紀が4代将軍徳川家綱から6万坪を拝領したのが始まり。
これがどんどん追加され、最終的には21万7000坪余りになりました。
*wikipediaより引用
東京ドームが約1万4000坪ですから、東京ドーム15個半という広さになります。
*いたばしらいふ.comより引用
現在の地図で表示するとこれだけの範囲が加賀藩の下屋敷の敷地だったのです。
そんな広い下屋敷ですが常駐する家臣は非常に少ない数でした。
本郷の上屋敷には家臣が2800人程度いたと言われていますが、下屋敷では常駐している家臣は非常に少なく、1人の上級武士と50人ほどの足軽クラスの武士によって維持管理が行われていたといいます。
*wikipediaより引用
下屋敷は基本的に別荘としての位置付けとなっていて、藩主とその家族が散策したり鷹狩りをしたり、音楽会や園遊会も開催され、幕末には会津藩主の松平容保も訪れたんだそうです。
それ以外には、国許からの物資の荷受や倉庫としての役割や幕末期には大砲の製造や軍事調練の場としても使われました。
また中山道板橋宿という宿場町の近くということもあって、参勤交代の休息や着替えの場でもありました。
それは藩主とその家族にとっては、お迎えとお見送りをする場でもあったのです。
次回は実際に跡地をめぐります!
*東京で金沢を探す旅!板橋駅付近で加賀藩江戸下屋敷跡をめぐる〜史跡探索編〜
*東京で金沢を探す旅!板橋駅付近で加賀藩江戸下屋敷跡をめぐる〜金沢・加賀の名前探索編〜
主な参考文献
『中山道板橋宿と加賀藩下屋敷』(板橋区立郷土資料館、2010年)
『加賀藩の江戸藩邸』(平成13年度近世資料館冬季展パンフレット)
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