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江戸の働き方改革〜江戸時代農村の休日事情〜

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

現在、電通の痛ましい事件もあって、長時間労働の是正を中心とした働き方改革が盛んに叫ばれています。

以前、私もこのような日本の長時間労働のルーツはいったいどこにあるのか?
という問題について、江戸時代の前半がルーツであるという説をご紹介したことがあります。

【歴史トーク】日本人の長時間労働のルーツは江戸時代にあった?

しかし、実は江戸時代の後半に一度、この長時間労働を是正しようという動きが全国の農村で起こっていたことは意外と知られていない事実かもしれません。

今回はそんなお話です。

江戸時代後半とはどんな世の中だったのか?

江戸時代の後半は世の中が豊かになり、食べられれば満足という時代は終わりを告げました。
しかし豊かな暮らしをするためにはお金が必要です。
地方で米だけを作っていたのではそんな生活はできません。
そこで新しい産業に進出し、現金を稼ごうとする農民が現れます。

豪農の誕生です。

しかし、誰もがこのように現金を稼ぐことができたわけではもちろんありませんでした。
一部の豪農(富裕層)と一般の農民の間で格差が生まれます。
そこに飢饉という天災(不況)が何度も襲ったため、一般の農民は年貢(税金)が払えなくなり土地を手放し、豪農(富裕層)の土地を耕すなどの賃労働者となっていったのです。
現在も、自営業者は年々減少しサラリーマンが増加していますが、それに似た状況があったわけです。

これまで自分の田畑を持ち、働けば働くほど稼ぐことができていた生活から、頑張っても頑張らなくても収入は変わらない生活に変わる人が続出したのが江戸時代後半の世の中でした。

また、幕府や藩も財政赤字だったので、少しでも農民が利益を上げるとそこから年貢(税金)を取ってやろうとやっきでした。
結果、どんどん農民たちの仕事へのモチベーションは下がっていきます。

そんな状況だったので、江戸時代後半の賃労働者化した農民は、収入が増えないならせめて休みをよこせとばかりに、どんどん休みを要求するようになります。

そして、藩もその動きを肯定していくようになるのです。

まさに働き方改革が実施されていたのです。

江戸時代後半の休日増加の事例

では、具体的にどれくらい休日が増えたのでしょうか?

鳥取藩の事例をあげると、
宝暦3(1753)年は農民の年間休日はたったの12日でした。

しかし、約40年後の寛政8(1796)年では年間30日。

今と比べれば比較にならないくらい少ないですが、なんと倍以上も休日が増えたのです。

ちなみに江戸時代の休日には2種類ありました。

それは、なにをしても自由な休日と祭りなどの遊び日です。

休日の増加は、遊び日を増やすという形と休日の定例化という形で進みました。

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結果、江戸時代後半は全国的に収穫祭や神仏事などの祭りが増加することになります。

また休日の定例化の事例では、加賀藩が毎月10日、20日、晦日(みそか)の3日を毎月の定例休日としていたことが知られています。

もっとも農民にとってホワイトだった藩は仙台藩(伊達藩)

では全国でもっとも休日が多かったホワイトな藩はどこだったのでしょうか?

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それは仙台藩(伊達藩)だったと言われています。

文化2(1805)年の事例ですが、仙台藩領の農民には年間80日の休日があったそうです。

現在の暦で見ると休日はだいたい120日前後ですから、それには及ばないものの先に挙げた鳥取藩の事例から比べると2倍以上の休みがありました。

なぜ鳥取藩と仙台藩にこれほどの差が出たのでしょうか?

仙台藩の藩主は特別、農民想いの優しい殿様だったのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

仙台藩にはそうせざるを得ない事情があったのです。

仙台藩がホワイトだった理由とは?

仙台藩領の農民に休日が多かった理由。

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それは飢饉です。

東北は江戸時代の後半、とくに飢饉に多く見舞われた地域でした。

飢饉は仙台藩領の農村の人口を大きく減らしました。

結果、仙台藩は全国でも有数の人手不足な藩となったのです。

賃労働者の賃金割増要求と休日増加の要求に応えなくては、労働者を確保することができなかったのです。

また、藩も年貢(税金)収入を増やすには、農地を労働者に耕してもらわなくてはなりません。

結果、藩も農村の賃労働者の働き方改革(休日増加)に手をつけなくてはならなかったのです。

いかにして農民は休日を勝ち取ったのか?

そして、このような休日増加要求の担い手は誰だったのでしょうか?

天明7(1787)年の加賀藩の法令によると、

臨時の休日を村役人へ頼むため若者と使用人が大勢おしかけ、村役人が許可しなければ、乱暴狼藉を行っている。

とあって、若者や日雇の労働者が休日を要求したことがわかっています。

 

報われない長時間労働を当たり前だと思わない若い世代が声をあげ、力づくで休みを勝ち取る。そんな世の中になっていったのです。

休日の増加は余暇が増えるという意味では農民にとって良いことでした。

しかし残念ながら、休日の増加は決して農民にとってベストな状況ではなかったといえます。
なぜならたとえ休日が増えたとしても、貧困状態から抜け出せたわけではないのですから。

江戸時代の農民たちがいかに貧困から抜け出そうとしたのかについては、また別の機会で書いてみたいと思います。

主な参考文献

古川貞雄『増補 村の遊び日―自治の源流を探る』(農山漁村文化協会、2003年)

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