戦国時代の武士のパラレルキャリア

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
ロート製薬で副業が認められるなど、パラレルキャリアについての議論が盛んになってきました。
これは私自身、非常に良い傾向だなと思っています。
岡田斗司夫さんが以前言っていたことですが、世の中は乱世に向かっているというのはまさにその通りだと私は思っています。
最近、呉座勇一さんの『応仁の乱』という新書が売れているらしいのですが、それはまさに今が応仁の乱の頃に匹敵する時代だという認識を持つ方が多いからなのではないかと思うのです。
となれば、パラレルキャリアというのは今後、当然のものとして受け入れられるのが時代の流れとなるように思います。
なぜなら戦国時代以前はパラレルキャリアの方がスタンダードだったからです。
肩書きが一つの人は珍しい時代。それが戦国時代以前の世界です。
農民でもあり武士でもある。
こんな人が当たり前にいたというか、このような兵農未分離の状態の方がスタンダードだったのです。
加賀前田家の事例
石川県内に残る天正10(1582)年の「鹿島郡熊淵村検地帳」に載っている人名が興味深いのです。
弾正、太郎兵衛、兵衛、因幡、右近、助、道場、左衛門、水上左近、介九郎、いつみ、兵衛四郎・・・
検地帳だから、そこに載っている人名は田んぼを耕す農民が記されているはずなのに、水上左近なんて苗字を名乗っている者がいたり、弾正だの、因幡だの右近だのどう見ても武士の名前だよねという人がずらり。
また石川県では前田利家の頃、扶持百姓という制度がありました。
これは百姓にも武士のように扶持米を与える制度なのですが、羽咋郡相神村の上島弥五郎の事例を見てみると面白いことがわかります。
この上島弥五郎さん。知行140俵を前田利家から与えられていました。
しかし天正11年3月に戦死してしまいます。
そこで、弟の弥六さんが遺産相続するように、前田利家は求めるのですが弥六さんはそれを断ります。
そこで扶持百姓として、扶持80俵に減額して家督を相続することになるのです。
ここで面白いのは、扶持140俵と言えばまあまあのポジションでして、現在の会社に例えれば課長クラスくらいだと言っても良いのではないかと思うレベルの人の事例だということです。
つまり武士として課長クラスの給与を頂いていつつ、自分で土地を所有して農業経営を行っていたことがわかるのです。
そして弟の代になって副業である農業経営を本業にし、武士の務めを副業に切り替えた。
そういう事例なのです。
今後、世の中はこのように本業と副業は絶えず入れ替わり、またそれを自分で選択できる時代になっていくんだろうと思うのです。
また、会社というものも個人事業主の連合体という形に変化していくのかもしれません。