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京都錦市場を守れ!絵師伊藤若冲アナザーストーリー

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

昨年、生誕300周年ということで、様々な企画展が開かれた伊藤若冲。

伊藤若冲といえば、

京都の錦市場で野菜を商う青物問屋の長男として生まれ、23歳で家督を継ぐも商売には興味無し。そして唯一熱中したことが、絵を描くことだった。

みたいなストーリーで話されることが未だに多いですが、近年は京都の錦市場の危機に対して、町年寄という町会長や市議会議員のような立場で京都の町奉行に対して錦市場の公認を訴え、見事錦市場の危機を救ったタフネゴシエーターとしての側面が注目されています。

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それは宇佐美英機さんの「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」(中村勝責任編集『市と糶』(1999年、中央出版出版部)という論文が「発見」されたから。

「発見」というのは当初、著者の宇佐美さんはここに出てくる桝屋若冲がまさか伊藤若冲とは思っていなかったのです。

まったく別の関心で研究をしていたら、たまたまその主人公が伊藤若冲だったというわけ。

なかなか面白いエピソードなのです。

京都錦市場と伊藤若冲

では、実際の若冲の活躍ぶりはどのようなものだったのでしょうか?

京都の錦高倉市場の公認についての訴訟が行われたのは、明和8(1771)年から安永3(1773)年までの3年間。

時期としては、江戸時代の田沼時代と言われる時期にあたります。

時代劇でいうと剣客商売の時期ですね。

訴訟の文章からは、この京都錦高倉市場は寛永年中(1624〜1645年)に公認されたと書かれており、実際に公認されたかどうかはともかく、その頃から市場のようなものが存在していただろうことがわかります。

しかし、京都町奉行に上納する冥加銀(市場の公認料のようなもの)の額がもとで、市場が休止させられそうになりました。

なぜ突然そのようなことになったのかというと、どうも五条問屋市場という錦高倉市場の商売敵が手を回したようなのです。

五条問屋市場は帯屋町の町年寄だった若冲のもとに明石屋半次郎という男を使いに出します。

錦高倉市場は帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の4つの町の集合体でしたが、帯屋町だけが五条問屋市場から市場の権利を借りる形にするなら交渉の世話をするよ。と言ってきたのです。

当然、若冲はそんな抜け駆けのような真似は拒否。

五条問屋市場とは別に町奉行所と交渉を進めます。

結果、年に銀15枚の冥加銀を町奉行所へ支払うことで市場の開設を許可されたのです。

若冲に更なる危機!

しかしその後、若冲に更なる危機が舞い込みます。

五条問屋市場が銀30枚払います!と町奉行所に言い出したのです。

結果、荷主や仲買が集まって市を立てることが禁止されてしまいました。

さらに問題となったのが、さきの4つの町の代表が勝手にその文書の請書を出してしまったこと。

俺は納得してないぞ!という声で満ち溢れるのです。

若冲は再度、交渉に挑みます。

しかし、帯屋町ひとつだったらなんとかなるかも、という内々の話はもらえたものの4つの町でなければ意味がないと拒否。

困った若冲。

中井清太夫という人物に助けてもらうことになります(どのような人物だったのかは不明)。

中井から出たアイデアは、近隣の青物(野菜)を作っている農民たちに市場が無くなったら年貢が払えなくなると訴えてもらったら良い。というものでした。

実際、農民にとっても五条問屋市場だと取り扱う青物の種類が違うとか、錦高倉市場の方が一般客相手の商売だから高く売れるとか、錦高倉市場だと大店の大量購入が見込めるとか、色々有利な点がありました。
五条問屋市場だけだとプロ相手の商売のみになるので安く買い叩かれる可能性があったのです。

まず最初は壬生村を味方につけ、その後さらに3つの村の協力を得て市場再興の願書を提出しました。
また別の願書では、近隣の料理屋や茶屋の者たちが野菜が買えなくなって不便になるという主張も繰り広げました。

その後、さらに協力してくれる村を増やして5つの村で願書を再提出します。

しかし、事態は好転することがありませんでした。

困った若冲は江戸の町奉行所への訴えも視野に入れ、町年寄を辞職していつでも江戸へ行ける体制をつくります。

その後も若冲の協力村落の開拓は続き9ヶ村となったあと、さらに葛野郡のほか愛宕郡でも3ヶ村の協力をとりつけ、2郡にまたがる12ヶ村にまで広がります。

そうして、市場再興のために明け暮れた若冲の1年が過ぎるのです。

錦高倉市場再興に向けて

年が明けて安永2(1772)年。

中井清太夫に追加して若林市左衛門という者もブレーンに追加するも、この時には西魚屋町と貝屋町は訴えを断念。

若冲の帯屋町と中魚屋町だけの訴えとなっていました。

しかし諦めずに若冲が訴え続けた結果、翌安永3(1773)年。

とうとう決着がつきます。

年間銀35枚の冥加銀を町奉行に支払うという約束で錦高倉市場は公認されるのです。

じつに2年の歳月がたっていました。

この時の結果を4つの町から村方へ伝える文書には14名の商人の署名が記されており、桝屋若冲の名もその中に確かに記されていたのでした。

参考文献

宇佐美英機「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」(中村勝責任編集『市と糶』(1999年、中央出版出版部)

 

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