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ケネディも尊敬したという江戸時代後期の明君、上杉鷹山はいったい何をしたのか?

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

昭和36(1961)年。

 第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは

あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか?

の質問にこう答えました。

上杉鷹山です。

と。

上杉鷹山(うえすぎようざん)
本名:上杉治憲(うえすぎはるのり)。鷹山は隠居後の号。
出羽国(山形県)米沢藩15万石。9代藩主。
日向高鍋藩2万7千石秋月家に生まれ、上杉家の養子となる。
文政5(1822)年没。

なぜ、アメリカ人であるケネディが江戸時代の一地方の藩主のことを知っていたのでしょうか?

原因はこの本。内村鑑三著『代表的日本人』です。

明治41年発行。原題『Representative Men of Japan』

紹介された人物は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人。

明治時代、西洋に対して遅れていると考えられていた日本が、西洋と対等の文明国であると主張するために記された本です。

ケネディは本書を読んで、上杉鷹山を知ったと思われます。

明治37年以降、小学校の修身の教科書に出てくる人物として、日本国内でもアジア・太平洋戦争前までは有名な人物でした。

しかし、あまりにも禁欲的で、道徳・仁政を意識した偉人というイメージを創りすぎていたため、戦後は忘れられた存在となっていました。

1990年代から改めて見直され、よりニュートラルな視点から再評価がなされています。

上杉鷹山の名言としては、

「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」

「してみせて 言って聞かせて させてみる」(山本五十六に影響)

「働き一両、考え 五両 、知恵借り十両、コツ借り五十両 、ひらめき百両、人知り三百両、歴史に学ぶ 五百両 、見切り千両、無欲万両 
」

などがあります。

しかし、実際に上杉鷹山はどんな状況下で何をしたのでしょうか?

今回はそんなお話です。

上杉鷹山の置かれた環境とは?

そもそもの問題は関ヶ原の戦いから話は始まります。

上杉家は有名な直江状を徳川家康に叩きつけ、これが家康の会津征伐につながり、ひいては関ヶ原の戦いとなったわけです。
関ヶ原の戦いは結局家康の勝利に終わり、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されることになりました。

さらに寛文4(1664)年、4代綱勝が嫡子も養子もいないままに急死。
その罰則として30万石から15万石に減封されたのです。

この際、大幅に藩士のリストラが行われました。
実に1400人以上が解雇されたのです。

しかし問題がありました。

給料を多くもらっていた上級家臣団はまったく減らすことができていなかったのです。

しかもリストラ後の延享2(1745)年の記録によると5086人、明治3(1870)年の記録によると6722人も家臣がおり、これは46万石あった福岡藩に匹敵する人数でした。

たった15万石の藩なのにです。


結果、藩の財政は大赤字。

俸禄の四分の一借り上げが行われるなど、藩士の生活は窮乏しました。

上杉鷹山以前の米沢藩(宝暦期:田沼時代)

上杉鷹山以前は藩主の側近である森平右衛門によって行われました。

・郡奉行(農村担当)ー大庄屋(村の代表)のラインが厳しく年貢を管理。
・武士が商売を行うものに対して役銀を徴収
 →質屋、陶工、野菜栽培、機織など
・富農や城下町商人を武士に取り立てつつ御用金を徴収

森平右衛門政権下の米沢藩は厳しい課税の時代

領民は領外に逃亡してしまい、人口減少がものすごかったそうです。

元禄13(1700)年には12万8696人いた人口が、宝暦10(1760)年には9万9369人と60年で3万人も減少してしまったのです。

そこで、譜代の老臣である竹俣当綱によるクーデターが起こります。
身分の低い藩士を取り立てて、改革に乗り出すのです。

上杉鷹山家督を継ぐ! 明和・安永の改革

この時期は、産業に明るい竹俣当綱(たけのまたまさつな)、財政に明るい莅戸善政(のぞき よしまさ)の2人が改革のリーダーとして活躍しました。 

その理念は、

「地利を尽くす」

土地を最大限活用し、様々な産物の生産量を増大させることでした。

例えば、青苧(麻織物の原料、小千谷縮)、漆、蝋、ほか製塩、藍、硯などです。

とくに、ろうそくを作るために漆を100万本植えたのは有名な話です。
漆は多くの労働力が必要な作物のため、引き抜く者が多発していたのを改めて植えさせたのでした。

しかし、これは百姓が漆の樹液を採ってすぐに枯れさせてしまうという問題点が発生し挫折します。

また、家臣たちのマインドを変えさせ、家臣たち自らが開発事業を手伝うようにしました。

同時に大倹約令を実施。
藩主仕切金の削減を行い1500両から約209両に削減。
食事は一汁一菜。
衣服は綿の衣類。
奥女中は50人から9人に減らされました。

それ以外の改革としては、

・都市商人との金融関係の回復(領地外の商人:江戸、大坂、越後、酒田)
・備籾蔵の設置による農村のセーフティネット
・世襲の代官の廃止など農村支配機構の整備
・藩校興譲館の創設など教育の振興
 細井平洲を招聘。上杉鷹山聖人伝説の創作による政治理念の浸透

などが挙げられます。

上杉鷹山隠居す!

このように多くの改革を行った竹俣当綱と莅戸善政でしたが、安永9(1780)年に反対派の圧力により竹俣当綱は失脚、天明3(1783)年には莅戸 善政が引退することになります。

天明の飢饉という大災害も原因のひとつでした。

それもあって、天明5(1785)年上杉鷹山は隠居することになります。

それ以外の隠居の理由としては、幕府の普請役をさけるためとか、養父が健在のうちに養父の実子へ家督を譲る意図があったとも言われています。

しかし、10代治広は上杉鷹山の後見を希望。

改めて寛政の改革が行われるのです。

寛政の改革と莅戸善政の再抜擢

寛政の改革では上杉鷹山の思想には変化が現れると言います。

それは、

「天下国家」から「家」の維持へ
「聖人の道」から「士風」の手本へ

上記2つの変化です。

また人民啓蒙事業も廃止しました。

隣の人のもうけをうらやみ、自ら進んで利益を追求しなければ一生懸命働いたりしないのが人情というものである。
人民の啓発は野生の虎のように苛烈な圧政を招く、柔和なやり方をすれば、かならず人民はついてくる。

このように、より現実的な対応を進めたのです。

その上で優秀な人材の登用や政治機構を簡略化して役人の整理を行いました。

また、大幅に減少した人口の増加策として、乳児を持つ農家への養育手当を支給したり、他国縁組みの許可など、とくに女子人口の増加を狙いました。

結果、万延元(1860)年には、ほぼ人口が回復するのです。

財政面では、5カ年の年貢未納金徴収の猶予を設定。

その後、財政十六カ年の組立を行います。

そこで出された法令としては、

経費半減令や藩士土着令、藩士の副業奨励、産業の奨励などでした。
桑や楮を植えることを再度奨励し、農村の養蚕を進めたり、青苧や絹織物(米沢織)の専売制度を推し進めました。
   
結果、財政十六カ年の組立は、遅れたものの33年目に成就

負債11万両から5千両の貯蓄へと
米沢藩の改革は成功するのです。

米沢藩の改革の成功は人民の啓発だけが原因ではありません。

藩の財政再建だけを考えたのではなく、人民の生活を豊かにすることをまず第一にかんがえたからこそ成功することができたのだと言えるのではないでしょうか?

 

主な参考文献


内村鑑三著、鈴木範久訳『代表的日本人』(岩波文庫、1995年)


横山昭男『上杉鷹山』(吉川弘文館、1968年)


小関悠一郎『<明君>の近世ー学問・知識と藩政改革ー』(吉川弘文館、2012年)


マーク・ラビナ著、浜野潔訳『「名君」の蹉跌』(NTT出版、2004年)

鈴村進『上杉鷹山「奇跡」の経営』(三笠書房)


童門冬二『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫、1990年)


佃律志『「生涯改革者」上杉鷹山の教え』(日本経済新聞出版社、2012年)

 

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