Road of 関ヶ原【中編】豊臣秀吉政権5つの問題点と内部分裂

Road of 関ヶ原。
前回は小牧長久手の戦いで徳川家康が豊臣秀吉に勝利したことで、秀吉は実力だけでなく朝廷の権威を借りることで天下の統一をしようとした。
そして当時平氏を名乗っていたこともあって将軍ではなく関白に就任(このとき藤原氏に変更)。豊臣の姓を新たに得ます。
そして関白として全国に戦争停止を命令。違反したものは関白の名のもとに大名連合軍を差し向けるという形で天下を統一した。
そんなお話をさせていただきました。
*Road of 関ヶ原【前編】豊臣秀吉政権とはアメリカ合衆国である
今回は、そんな豊臣政権が秀吉の死後に崩れていく理由として、
そもそも秀吉が生きていたときからこの政権は色々問題点を抱えていたこと。
そして、そのおかげで家臣たちも一枚岩ではなかったことをお話したいと思います。
豊臣秀吉政権5つの問題点
秀吉が生きていたときから、豊臣秀吉政権は以下の問題を抱えていました。
1、豊臣秀次と豊臣秀頼(北政所と淀殿)の対立
2、朝鮮出兵以降の吏僚(文治)派と武功(武断)派の対立
3、全国統治の方法での感情のもつれ
4、五大老・五奉行の権力闘争
5、豊臣家と徳川家の抗争
大きくこの5つです。
2・3・4は結構リンクしますが、そのあたりも含めて解説してみたいと思います。
1、豊臣秀次と豊臣秀頼(北政所と淀殿)の対立
これは有名な話ですが、秀吉は長く子供に恵まれませんでした。
そのため、秀吉の姉夫婦の長男だった秀次を養子にし、跡取りとしました。
そして秀次が秀吉の後を継いで関白となったとき、まさかの事態が発生するのです。
淀殿の豊臣秀頼懐妊です。
このとき、秀吉家臣団と全国の大名は秀次派か秀頼派か、または秀吉の正妻である北政所派と淀殿派に別れることになります。
後に、秀次は切腹することになりますが、このとき秀次派だった最上義光や浅野幸長、細川忠興、伊達政宗などは徳川家康のとりなしもあって事なきを得ます。
家康に借りができたのです。
また秀吉家臣団にとっては北政所派か淀殿派かというのも大きな問題でした。
とくに幼い頃から秀吉に従ってきた福島正則や加藤清正、北政所の義弟だった浅野長政や子の浅野幸長などは北政所派として、淀殿と対立を深めることになるのです。
この段階で、浅野長政以外の吏僚(文治)派はほぼ淀殿派。武功(武断)派は北政所派と分裂することになります。
そして、父長政が五奉行筆頭だった浅野幸長は、武功(武断)派の一員となるのです。
2、朝鮮出兵以降の吏僚(文治)派と武功(武断)派の対立
その後、淀殿派と北政所派の2つに分かれた吏僚(文治)派と武功(武断)派の対立を決定づける事件が発生します。
朝鮮出兵です。
朝鮮出兵での武功(武断)派の評価を石田三成たち五奉行が低く秀吉に提出したため、対立が決定的となったのは有名な話です。
3、全国統治の方法での感情のもつれ
さて、知られているようで意外と重要視する人が少ないのが、豊臣秀吉政権の中央集権的性格です。
秀吉はかなり積極的に外様大名の内政に干渉しました。
大名の家臣に直接秀吉が知行を与えたり、大名の領地に奉行を送り込んで太閤検地をやったり、与力大名制度といって国持ち大名の近くには必ず見張りの大名を配置しました。
そして、トドメは大名の領地は島津や大友などの鎌倉時代からの名族の領地だろうが、すべて「当座」のものとしたことです。
大名はいつでも秀吉の一言で転封させられることになったのです。
それは徳川家康でさえ例外ではありませんでした。
*この点についてはこちらの記事もどうぞ
【歴史トーク】なぜ徳川家康は江戸に入ったか?
そして、そのロジックは豊臣秀吉が将軍ではなく関白として日本を支配したことに由来します。
古来、朝廷は国ごとに国司を任命して京都から派遣していました。
そして任期は6年(のち4年)。
つまりこれまで勝手に自分たちの土地にしていた大名の領地は、あくまでも朝廷から期間限定で預かった土地にすぎないとしたのです。
これは結構大きな問題で、のちのちまで影響を及ぼすことになるのです。
4、五大老・五奉行の権力闘争
これに関しては、まさに3の問題が関わってきます。
自分たちの領地は自分たちで自由に治めたい、地方分権を主張する五大老と中央集権をあくまでも押し切る五奉行の対立です。
石高も多く実力のある大名たちが、簡単に三成に味方しきれない理由はまさにここにあったのです。
5、豊臣家と徳川家の抗争
そして小牧長久手の戦い以来、当然のように豊臣家と徳川家の水面下での争いはずっと続いていました。
関ヶ原までの大名の勢力分布
関ヶ原合戦は石田三成vs徳川家康の戦いで、映画「関ヶ原」のホームページにある相関図でもまずはそう描かれています。
*映画関ヶ原HPより
しかし大事なのは、下の方にいる人たちです。
上記の5つの問題点から、当時の大名は大きく4つの派閥にわかれ、さらにそれぞれの細かい事情により入り乱れていきます。
まず4つの派閥はこうなります。
1、淀殿派、吏僚(文治)派、中央集権派、反家康派、豊臣政権派
2、北政所派、反吏僚(文治)派、反中央集権派、反家康派、豊臣政権派
3、北政所派、反吏僚(文治)派、反中央集権派、家康派、豊臣政権派
4、北政所派、反吏僚(文治)派、反中央集権派、家康派、家康政権派
1は石田三成と五奉行。4は徳川家康と家臣団程度で、どちらも全国的な数から見れば少数です。
2と3の大名たちをいかに取り込むか。
これが、三成と家康にとって非常に大切でした。
三成にとっては、中央集権の方針に反対するものの反家康派の五大老をいかに引き込むか。
家康にとっては、豊臣政権の維持は譲らないが反三成派の武功(武断)派の取り込みが重要でした。
豊臣秀吉の死後、これらの派閥は一斉に暗躍することとなるのです。
つづく・・・
文責:安藤竜(アンドリュー)
主な参考文献
山本博文「統一政権の登場と江戸幕府の成立」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 第5巻近世の形成』東京大学出版会、2004年)
中野等「豊臣政権論」(『岩波講座日本歴史 第10巻近世1』岩波書店、2014年)
黒田基樹『近世初期大名の身分秩序と文書』(戎光祥出版、2017年)
堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)
ご案内
お仕事(ライティング・調査)のご依頼はこちらから
金沢歴活(東京・金沢)のイベントの確認はこちらから
金沢歴活のフェイスブックページもあります。
歴活イベントへの参加は申し込みフォームからお申込みくださいませ
金沢を古地図で散歩しよう!
最新の歴活情報はこちらの無料メルマガ「歴活通信」がオススメです!
登録よろしくお願いいたします!