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Road of 関ヶ原【後編】豊臣秀吉の死と関ヶ原への道

前回では豊臣秀吉政権には5つの問題点があり、それゆえに大きく4つの派閥ができていたことをお話ししました。

今回はそれを踏まえて、豊臣秀吉の死後、関ヶ原へどう向かっていくのか解説してみたいと思います。

秀吉没後の動向

豊臣秀吉没後、まず動いたのは徳川家康です。

家康は伊達政宗や福島正則、蜂須賀家政と婚姻関係を結びます。

東北の雄政宗と武功(武断)派の取り込みです。
蜂須賀家政は父の蜂須賀正勝(小六)は秀吉の近臣でしたが、五奉行の台頭とともに息子の代では武功(武断)派という位置付けでした。

このような動きに対して石田三成は五奉行こそ豊臣政権の「年寄」であり、五大老は豊臣政権の「奉行」であると豊臣秀吉の遺言をもとに主張。
家康の動きを封じ込めにかかりました。

そんなさなか、前田利家が亡くなります。

秀吉は弟の羽柴秀長の死後は前田利家を引き上げ、調停役としていましたが、頼りの前田利家も亡くなってしまうとパワーバランスが崩れます。

結果として武功(武断)派七将による石田三成襲撃計画につながり石田三成は謹慎。

五大老・五奉行体制がほころぶことになります。

その後、五大老の一人、毛利輝元の斡旋により話は収まりますが、この流れから徳川家康は伏見城に入城します。
三成の失脚から毛利輝元は戦意を喪失。他の五大老も帰国することになり、家康の専制体制が整うようになったのです。

このとき、前田利長や浅野長政による家康暗殺計画の噂も流れ、家康は大坂城西の丸に入城。北陸討伐令が出され、前田利長はお母さんのおまつさん(芳春院)を江戸へ送ることになるのです。
豊臣秀頼のいる京都や大坂でなく、家康の本拠地江戸へ送ることになったことで前田利長は以後、家康に逆らうことはできなくなりました。

会津征伐から関ヶ原へ

そんなさなか、五大老のなかでは最後まで家康に抵抗した上杉景勝は軍事力を増強。
その様子は与力大名の最上義光や堀秀治によって家康に報告されていました。

その状況に対して、弁明を求める家康に対して直江兼続は有名な「直江状」を送りつけ、家康を批判。

会津征伐となります。

このときの編成がじつは、関ヶ原合戦の東軍の編成となります。

徳川秀忠率いる前軍は徳川一門・譜代中心の部隊+信州・下野の大名。
徳川家康率いる後軍は徳川旗本部隊と豊臣系大名の大部隊、そして多数の中小大名でした。

こうして、徳川家康が東へ向かうと石田三成は大谷吉継と謀って挙兵。
その後、大坂城の他の三奉行や五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を味方につけ、在阪の大名も支配下におくことに成功。
淀殿・豊臣秀頼と五大老の2人を味方につけ、豊臣vs徳川の形をつくることに成功します。

しかし、このあたりが微妙なズレを生むことになるのです。

小山評定と情報の遅れ

三成挙兵の報告がなされると、家康は小山評定にて豊臣系大名に態度決定を迫ります。

しかし大事なポイントはこのとき、三成が他の三奉行、豊臣秀頼や毛利輝元を味方につけたことまでは伝わっていなかったのです。

豊臣系大名の判断材料としてもっとも大事な、豊臣秀頼の動向が伝わっておらず単なる三成の挙兵としてでしか伝わっていなかったのです。

実際問題、家康は三成の挙兵の情報を三奉行から聞いているのです。
まさか三成が三奉行を味方につけているとはまったく思っていませんでした。

そのため、三成憎しの武功(武断)派の面々は家康に味方することに決定。

さらに山内一豊は居城の掛川城を家康に進上。他の東海道の城主たちもそれに倣い、徳川家康は東海道の城をすべて手に入れます。
これは後々、大きな意味を持つことになります。

家康はその後、会津の抑えとして結城秀康を置き、東海道の各城に城番を設置。
その上で東軍への参加を呼びかけることになります。

その後、豊臣秀頼が西軍を豊臣の公式の軍と認めたことが東軍に伝わりますが、ここまで来ると家康も今更態度を確かめることもできず、武功(武断)派がどう動くのかまったく読めないまま、なし崩し的に関ヶ原へ向かうことになるのです。

そこで、重要だったのが東海道の城を家康が抑えられたことです。
これによって、家康は一切豊臣系大名に邪魔されることなく高速で関ヶ原へ向かうことができました。

山内一豊は関ヶ原後、土佐一国を与えられますが、それは東海道の城を豊臣系の大名に一切邪魔されず通行できるようにしたきっかけをつくった功績が讃えられたのでした。

関ヶ原合戦と秀忠の遅参

関ヶ原合戦自体を語る際にポイントとなるのは、じつは徳川秀忠隊です。

ご存知のように、秀忠は中山道を通り真田昌幸のこもる上田城を攻撃します。
しかし真田昌幸の抵抗にあい上田城攻めは難航。
結果として関ヶ原合戦に間に合わないという失態を犯してしまいます。
もともとじっくり上田城を攻めるというのが本来の戦略で、家康が突然急いだせいで間に合わなかったという点で不運ではありますが、実際に関ヶ原以降の体制にこれが大きく影響を及ぼしました。

それは関ヶ原合戦の東軍の勝利が、徳川の勝利ではなく、武功(武断)派の勝利という性格に変わった瞬間でした。

というのも秀忠隊も家康隊もともに3万の軍勢でしたが、その内訳が違っていました。
秀忠隊は1万石以上で「備」という戦術単位を1人の大名で編成できる武将が10人もいて、攻撃の指揮系統が明確な攻撃型の部隊でした。
しかし家康隊は寄せ集めで、「備」を単独で構成することができず守り中心の部隊編成となっていました。

なので、関ヶ原合戦では家康隊でまともに攻撃ができたのは松平忠吉と井伊直政の部隊計6000のみ。

実際に戦った人数としては、福島正則や黒田長政らとあまり大差なかったのです。

そして、戦局次第では福島正則や黒田長政はいつでも裏切る可能性があった。

そんななか、リスク覚悟の「問い鉄砲」によって、ようやく小早川秀秋の裏切が確定。

ここまできて、ようやく家康は勝利を確信するに至るのです。

その後、毛利輝元は大坂城から撤退。

家康は大坂城西の丸に入城し、勝者として秀頼に謁見することになるのでした。

つづく・・・

文責:安藤竜(アンドリュー)

主な参考文献

山本博文「統一政権の登場と江戸幕府の成立」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 第5巻近世の形成』東京大学出版会、2004年)

中野等「豊臣政権論」(『岩波講座日本歴史 第10巻近世1』岩波書店、2014年)

黒田基樹『近世初期大名の身分秩序と文書』(戎光祥出版、2017年)

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年)

 

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