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城下町金沢と江戸を比較する vol.2 大店編〜三井越後屋と尾張町福久屋〜

金沢と江戸。

2つの城下町を比較して、深堀してみるシリーズ第2弾です。

城下町を理解するにあたって、吉田伸之さんはその著書で城下町を「分節的」に把握することの有効性を述べられました。

ざっくり言うと、城下町は下記のような要素から構成されていて、これらの特徴をみることで、城下町ごとの特徴や共通点を見出そうということ。

・城郭
・武家屋敷
・町人地の大店
・市場社会
・寺院社会
・遊郭社会

そして、城下町金沢の武家屋敷のあり方から、江戸と金沢の共通点を見出しました。
そこで、ならばそれ以外の要素でも可能な限り比較してみよう。
それが今回の企画です。

町人地の2つの発展型

第二回のテーマは町人地の大店(おおだな)。
江戸は三井越後屋。
金沢は近江町市場からひがし茶屋街の間に位置する尾張町の福久屋(つい最近まで石黒薬局として実際に経営されてました)をとりあげます。

町人地というのは、尾張町とか近江町といった個別町(ちょう)の集合体です。そして町に住む人は身分としては商人や職人なのですが、町家屋敷を所有する(家持)だけが町人と呼ばれました。

江戸時代初期までは、バラバラな業種の町人がフラットな関係を築いていましたが、江戸時代が進むにつれて2つの方向に変化していきます。

ひとつは大店型。もうひとつは市場型です。

大店型は図のように一部の大店が隣近所の屋敷も買い取ってしまい、大きく発展して個別町のリーダーとなる形です。

そして、巨大化した大店は、同族団や出入りの職人・商人、奉公人、同業の商人、町屋敷の管理人など多くの存在と社会関係を結びました。

大店の定義って?

さて、さっきから大店という言葉を気楽に使っていますが、その定義についてまずはお話しておきます。
「大企業」という言葉だと、製造業なら資本金3億円以上、従業員300人以上という定義があるようです(wikipedia参照)が、江戸時代の大店の場合は以下の定義があります。

1、店舗の間口が4〜5間
2、奉公人が10人以上
3、多くの抱屋敷を持つ
4、町内や町域を超えて多様な職人・商人・日用からなる「出入中」を持つ

これらを満たしていれば大店ということになります。

福久屋は薬種問屋として、尾張町で9間4尺あまりの店舗を構え、寛文10(1670)年の史料では、お店勤務では10人の奉公人がいたことがわかります。ほか奥方と呼ばれる生活面の奉公人がいました。
役職も番頭、番頭脇座、手代、主付、丁稚、下男という6階層になっており、奉公人組織がしっかりと出来上がっていたことがわかります。

また、尾張町、今町、十間町で借家を持ち、薬種問屋としての交流など町を超える交流をもったということでは、4つすべての条件を満たしているといえるでしょう。

この福久屋については最近、中野節子さんによる興味深い書籍が刊行されているので、こちらもぜひ読んでほしいです。

金沢の尾張町という町について

現在の尾張町は赤で囲んだ近江町市場からひがし茶屋街に向かう道すがらのほとんどを指しますが、江戸時代の尾張町は赤で囲んだエリアの右端上部の大通り沿いのみを指します。

町名の由来
は、天正11(1583)年の前田氏の金沢入部のとき、尾張国より前田氏の家臣が当地に移住したことによるとも、その頃に尾張国より町人を召し寄せて住まわせたことにちなむとも言われていますが、定かではありません。
何にせよ尾張国に関わる人たちが集住したエリアでした。

江戸時代の絵図を見ると、中央に大通りがあって、その両側に屋敷が並んでいます。
このような形の町を専門用語で「両側町」と言います。
ちなみに、金沢の繁華街は片町と言いますが、これは本来両側に町があるのに片側にしか町がないから片町なのです。

町には水溜があって、ここから水を汲んで生活用水としたのだと思われます。また汚水溝があり、下水道を流していたことがわかります。
町の境には木戸が設けられ、右端は今も存在する枯木橋があったので、橋番が設置されて不審者が町に入ってこないように管理されていました。
枯木橋の横には「御製札」の文字があり、ここには高札場があったことがわかります。

高札というのは、こういう木の札に直接法令が書かれたもので、橋のたもとなど人通りの多い場所に設置されました。

ちなみにこの古地図には、現在にも名を残すお店がいくつか載っています。石黒伝六商店は「福久屋はつ」と書かれています。
「住吉屋太兵衛」と書かれている住吉屋旅館は江戸時代後半に十間町、「森下屋八左衛門」と書かれている森八は最近に大手町へ引っ越しましたが、今も残っていますし、「黒梅屋平四郎」こと松田文華堂は商売こそしていないもののアジアの弦楽器の博物館として残っています。

尾張町の人々の仕事

面白いことに、尾張町に住んでいた人たちの商売がわかる史料が残っています。
今も残るお店では、福久屋が薬種、住吉屋は旅館だけに御手判問屋という通行手形の発行代行業、森八はやっぱり菓子商を営んでいたことがわかります。

全体としてはお城のすぐ近くということもあって、米問屋や仲買など年貢米を取り扱う業者が集まる町だったことがわかります。

江戸の大店の世界

金沢の大店の福久屋は従業人が10人程度でしたが、古地図を見るとまだまだ間口も小さく、本当に巨大な大店だと数倍はいるような店舗もあっただろうと思われますが、現在となってはよくわかりません。

それでは江戸の大店はどれくらいの規模があったのでしょうか。

江戸の大店は最大500人を超える規模の店舗もあり、やはり桁違いだったようです。
また越後屋は江戸、大坂、京都でも100人以上の店舗を構え、やはり日本でも最大の大店でした。


役職も福久屋が6段階だったのに対して、まさかの20段階!

ちなみに三井越後屋の近世最大の売上は延享2(1745)年
の銀13,835貫(
現在価値:688億9830万円)だったそうですが、加賀藩の元禄年間の年間予算が
銀11,690貫(
現在価値:584億2161万円)だったと言われており、日本最大の藩の年間予算を超える売上だったことがわかっています。

なので退職金も桁違いで、勤続27年の筒井金兵衛という人の事例だと、21貫(現在価値:1億500万円)もの退職金が支払われたそうです。

ただ当時の奉公人は毎月の給料というものがなく、働いた分はすべて積み立てられて退職金という形で支払われる仕組みでした。


そのため遊びたい盛りの奉公人たちは、店のお金を使い込んだり、商品を横流ししてお金を工面して遊郭に行くなど、問題を起こすことも多かったようです。

*このことに関しては、こちらの記事もご参照ください。
 江戸時代の新入社員も3年で辞めたのか?

金沢のやっちゃった奉公人

そんな事例が金沢にもありました。
福久屋の奉公人が主人に出した誓約書といっても良い「起請文」が残っているのです。

その内容を読み解くと、

  • 1条目私の不行跡について命じられたことは非常に迷惑でしたが、今回のことは親たちの嘆願により、お許しいただきました。今後は悪所へ行くことはありません。

  • 2条目前々から命じられていた内容を守ります。

  • 3条目昼・夜に限らず外出は報告してから参ります。店の中でも外でも博打などは絶対に致しません。

  • 4条目仕事はさぼることなく勤めます。うしろぐらいことは致しません。

  • 5条目うそをついてどこかに出かけることは致しません。家の規則の通り必ず奉公に努めます。

こんな内容でした。

1条目では悪所と書かれていることから、恐らくは当時まだ加賀藩では非公認だった遊郭に通っていたのでしょうかね。
尾張町から、そそくさとひがし茶屋街あたりまで通っていたのかなと想像するとちょっと笑えます。
ほか、外出の際は届ける、嘘はつかないとか、博打はしないとか、家のルールを守りますといった内容で、江戸時代の奉公人にもこんな問題児がいたんだなあと思うと、今も昔も変わらないなあと思わされますね。

<主な参考文献>

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