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城下町金沢と江戸を比較する vol.1 武家屋敷編〜江戸加賀藩邸と加賀藩家老屋敷〜

金沢と江戸。

2つの城下町を比較して、深堀してみるシリーズを始めたいと思います。

城下町を理解するにあたって、吉田伸之さんはその著書で城下町を「分節的」に把握することの有効性を述べられました。

ざっくり言うと、城下町は下記のような要素から構成されていて、これらの特徴をみることで、城下町ごとの特徴や共通点を見出そうということ。

・城郭
・武家屋敷
・町人地の大店
・市場社会
・寺院社会
・遊郭社会

そして、城下町金沢の武家屋敷のあり方から、江戸と金沢の共通点を見出しました。
そこで、ならばそれ以外の要素でも可能な限り比較してみよう。
それが今回の企画です。

金沢と江戸の共通点

第一回のテーマは武家屋敷。

吉田伸之さんの本を参考に、江戸と金沢の共通点を解説していきますね。
この本で金沢と江戸の共通点としてあげられるのは、どちらも複合城下町であるということ。
普通の城下町だと、お城があって、その周辺に家臣たちの武家屋敷があって、さらに外側に町人地があって、寺社地があるという構造になっています。
しかし複合城下町は、武家屋敷のなかにさらに武家屋敷があるのです。

江戸だと分かりやすいのですが、江戸城と旗本・御家人の屋敷があるだけでなく、大名の藩邸がありますよね。
大名の藩邸は後で詳しく見ますが、実質お城に匹敵する部分と家臣たちの屋敷部分があり、プチ城下町状態だったのです。
このように、城下町のなかにプチ城下町がある状態
これを複合城下町といいます。

こんな構造の城下町は他にあまりなく、金沢は加賀百万石の城下町に相応しい巨大城下町だったといえるのです。

では、まずは江戸の加賀藩邸から見ていきましょう。

加賀藩江戸藩邸

*googlemapより

加賀藩の上屋敷は当初、江戸城直近の龍之口(たつのくち)(千代田区大手町1丁目)にありました。
明暦の大火(1657)の後に筋違橋(すじかいばし)外(千代田区外神田3丁目)に移り、天和の大火(1682)があった翌年に元々は下屋敷だった本郷邸を上屋敷にします。
以後、

*googlemapより

・本郷上屋敷(8万8482坪余、文京区本郷5丁目)

・駒込中屋敷
(2万660坪、文京区本駒込6丁目)
・平尾下屋敷
(21万7935坪、
板橋区加賀1丁目)
・深川蔵屋敷(江東区門前仲町1丁目)

上記4カ所に屋敷がありました。

古地図で見ると、

こんな感じ。

ちなみに、加賀藩上屋敷のすぐ隣に、支藩の大聖寺藩と富山藩の藩邸もありました。

中屋敷は現在の六義園の向かいにあたる場所にあります。

そして加賀藩領内の年貢米や特産品を販売した蔵屋敷は深川にありました。

加賀藩江戸上屋敷の構造

では実際に加賀藩江戸上屋敷の構造から、加賀藩江戸藩邸がまるでお城のような構造だったのか検証してみましょう。

ちなみに、加賀藩江戸藩邸は江戸時代の絵図ではどんな風に描かれているのでしょうか。

*国立歴史民俗博物館WEBギャラリー

こんな感じです。
確かに見た目はまるでお城のようです。

この絵図を見れば一目瞭然ですが、御殿が表と奥にわかれ、その周囲を塀と門が取り囲んでいます。
そして、塀の外側には御貸小屋とか御徒町といった藩士の居住空間が広がっているのがわかると思います。
そして、その周辺の塀と門で囲われるという二重の囲いがなされていました。

加賀藩江戸藩邸に詰めていた人数は、寛政10(1798)年の数字だと上中下屋敷あわせて2,824人。
上屋敷だけで何人だったかは不明ですが、おそらく2,000人以上はいたのではないでしょうか。

まさに城と武家屋敷で構成されるプチ城下町がここにあったのです。

城下町金沢の家老屋敷

では、同じく江戸時代の金沢はどうだったのでしょうか?
加賀藩には家老クラスの家が8つあり、加賀八家(かがはっか)と呼ばれました。
そのうちの長(ちょう)家の事例をもとに見ていきましょう。
長家は33,000石と大名クラスの石高を誇り、その家臣も延宝6(1678)年段階で626人いた家です。


まず、そもそも加賀藩の法令を見ていくと、
加賀藩では3,000石以上の石高の家臣には下屋敷が与えられることになっていました。
その広さも決まっていて、100石あたり75坪と決められていました。(「典制彙纂(てんせいいさん)」『藩法集」4より)

長家は33,000石を持っていましたから、この規定でいくと12,000坪という東京ドーム1個弱の広さの下屋敷が与えられたことになります。

実際には加賀藩の江戸藩邸のように複数の場所で与えられ、

1、「上御家中」
  芳斉1丁目・長土塀1丁目
2、「北之御家中」
 芳斉2丁目西半分
3、「新屋敷御家中」中橋町東半分
4、「揚場御家中」 元菊町北部

上記4カ所にまたがっていました。

グーグルマップでそれらの場所を確認してみると、


赤で囲われているのが上御家中屋敷で、玉川図書館・玉川公園の敷地が長家の屋敷でした。

金沢駅からバスなら一つめのバス停にあたる「六枚」交差点から英町にかけてのエリア。

金沢駅からほど近く、ラーメン屋「達」さんの周辺。

金沢駅から一番近いレンタルビデオ屋さん。ゲオ金沢元菊店のあたり。

こんな感じになります。

古地図で見ると、

*延宝金沢図-ContentsViewFLEX-ADEAC

こうなります。
*ちなみにこのリンク先では加賀八家の屋敷はクリックひとつで飛ぶことができるので、とても便利!

加賀藩江戸藩邸と同様に、少しずつお城から遠ざかっているのがよくわかりますね、

そして長家の御屋敷と上御家中屋敷の構造を見てみると、やはり御屋敷は塀と門で囲われ、家中屋敷のエリアは一番町から四番町まであるという、やはり独立したプチ城下町状態だったのです。

そして上記、御屋敷と4カ所の下屋敷に、家族12人、掃除坊主17人、女房53人などを含む626人ほどが住んでいました。

そして、それぞれの屋敷には

「上御家中」75人
「北之御家中」37人
「新屋敷御家中」26人
「揚場御家中」26人

が分かれて住んでいたのです。

江戸時代の金沢は、全国でも5本の指に入る人口を誇る巨大城下町でした。そして加賀八家をはじめ大名クラスの家臣が大勢いた特殊な環境から、自ずとその構造も江戸と同様のものとなっていきました。

ただ唯一の違いは、前田家はじめ大名は自分の領地に城を持ち、参勤交代で江戸と領地を往復する存在でした。
しかし加賀八家の人たちは石高こそ大名クラスですが、自分の領地に住むことはなく、城下町金沢に定住する存在だったのです。

<主な参考文献>

 

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