1. HOME
  2. ブログ
  3. 城下町金沢と江戸を比較する vol.4 寺院編〜浅草寺と宝円寺 with総持寺〜

城下町金沢と江戸を比較する vol.4 寺院編〜浅草寺と宝円寺 with総持寺〜

金沢と江戸。

2つの城下町を比較して、深堀してみるシリーズ第4弾です。

城下町を理解するにあたって、吉田伸之さんはその著書で城下町を「分節的」に把握することの有効性を述べられました。

ざっくり言うと、城下町は下記のような要素から構成されていて、これらの特徴をみることで、城下町ごとの特徴や共通点を見出そうということ。

・城郭
・武家屋敷
・町人地の大店社会
・町人地の市場社会
・寺院社会
・遊郭社会

そして、城下町金沢の武家屋敷のあり方から、江戸と金沢の共通点を見出しました。
そこで、ならばそれ以外の要素でも可能な限り比較してみよう。
それが今回の企画です。

寺院社会のあれこれ

第四回のテーマは寺院。
江戸は浅草寺、金沢は宝円寺をとりあげます。
あと補足で、奥能登の事例ではありますが、曹洞宗の両本山である総持寺も紹介したいと思います。

城下町で寺院と言われてもピンとこないかもしれませんが、江戸では約6分の1のエリアを寺院の土地が占めており、町人地エリアとほぼ同等でした。
金沢も寺町寺院群、小立野寺院群、卯辰山寺院群と3つの寺町を持つなどお寺は多く、城下町金沢を構成する重要な要素だったのです。

城下町のなかの寺院社会には2つの型がありました。
まずひとつは街区を形成して密集する寺町。
そしてもうひとつは規模の大きい単立の寺院です。
江戸では上野寛永寺、小石川伝通院、芝増上寺、浅草寺などがあげられます。
金沢では天徳院、宝円寺、波着寺、如来寺、経王寺などがあげらるでしょう。

今回は後者の規模の大きな単立の寺院を中心とした社会を見ていきましょう。

浅草寺の空間構成と社会

浅草寺は「江戸名所図会」を見てもわかるように、江戸時代から観光地としても栄えていた寺院です。
上野寛永寺の支配下で、そこから派遣される別当代(本坊の伝法院に住んだ)が浅草寺の寺院組織を統括していました。

その空間構成は大きく3つに分かれます。

院内:本堂、伝法院(本坊)、北・東・南谷などの子院群(赤)
境内:本堂の周辺や、町屋スペース(青)
領内:門前の町々や千束村とその耕地(紫)

院内・境内・領内を構成する人々

院内は上野寛永寺からやってきた別当代を中心とした組織です。
別当代は左下の伝法院に住んでいました。
その下に役者と呼ばれる34の子院の代表と、寺の領地支配を担当する代官、境内の町屋経営を行う執事代堂番と呼ばれた人々がいました。

34の子院は一山と呼ばれ、南谷・東谷・北谷という3つのグループ(谷仲間という)を形成して、それらに中間、米つき、門番、飯焚、台所詰などなど多くの出入りの商人や職人が関わっていました。

境内は仁王門内側の本堂の区域と、34の子院の境内域に分かれますが、それぞれに町屋があり店舗・茶屋・芸能興行の小屋が置かれ、居住者からの地代は浅草寺および34の子院の大きな収入源でした。

さらにそれ以外に居住不可の店舗営業のみに特化したブロックもあり、営業者は近隣の自宅から店舗に通い、香具師のリーダーによって統括されていました。

最後に領内ですが、浅草寺の代官に支配された346石の千束村と170石分の門前町々を指します。
千束村は実際には存在せず、材木町・花川戸町・山之宿町の3つの町を千束村といいました。
これらの町々は浅草寺へ年貢や諸役を納め、浅草寺と深い関わりをもったのです。

金沢・宝円寺をめぐる社会

宝円寺は兼六園の裏手、小立野エリアにある曹洞宗寺院です。
もともとは越前府中にありましたが、前田利家が帰依してからは、前田利家とともに七尾に移り、利家が金沢城に入ってからは小立野に建立されました。

寺内の人数は41人。

僧が30人
で下男が9人。
尼が2人という構成でした。
寺領は230石ありましたが、浅草寺のような代官による支配はなかったようです。

また宝円寺は延宝金沢図を見てもわかるように広大な境内地を持ち、門前町も所有していて、門前には112軒の町屋がありました。


*『金沢市図書館叢書(一)金沢町名帳』(平成8年3月、金沢市立図書館)

おそらく浅草寺と同様、これらの商人から地代をとって寺院経営を行っていたと思われますが、残念ながら史料が残っておらず不明です。
また、職業構成もあまり宝円寺と出入り関係をもちそうな業種がなく、門前と寺院との強い連帯のようなものは感じられません。

おそらく徳川家康が江戸に入る前からの歴史ある寺院と、前田利家とともに新しく金沢にやってきた寺院との相違点かと思われます。
そしてそれを言うのであれば、金沢の場合ほとんどすべての寺院がそうであり、ここが金沢と江戸との相違点なのではないでしょうか。

では、加賀藩領に浅草寺のような寺院はなかったのでしょうか?

輪島市・総持寺祖院をめぐる社会


金沢から遥か遠く、奥能登の輪島市門前町。
ここに室町期に創建された曹洞宗寺院、総持寺祖院をみてみましょう。


*googlemapより

総持寺は明治時代に消失して以降、曹洞宗の本山としての機能は横浜に移転していますが、のちに再建され今も総持寺祖院として残っています。

境内図を見てみると、浅草寺の境内図とよく似ています。

勅門の内側に総持寺五院と呼ばれる、
中世以来の歴史をもつ五つの子院(普蔵院・妙高庵・洞川庵・伝法庵・如意庵)があり、前田利家の正室まつが利家と自身の位牌所として建立した芳春院を含むエリアが総持寺の院内にあたると考えられます。
中世には総持寺の住持(住職)は総持寺五院の各住持が交代で務め、江戸時代も1年任期で総持寺の運営に当たりました。

*江戸時代の総持寺の住持は、全国から出世(寺院の住持となるための儀式)のためにやってくる僧が1日住持を交代で務めた。

そして勅門と総門の間には、塔頭(たっちゅう)22ヶ寺があり、それぞれ総持寺五院に所属。役局と呼ばれる組織を構成しました。

総持寺の組織

総持寺にいた僧侶は塔頭を含めて合計で282人。
曹洞宗の本山に相応しい大人数だといえるでしょう。

また、在家の者も181人が寺院経営にかかわっており、門前町と寺領の4ヶ村から通勤していました。

総持寺の寺領は400石(万治2年)。このうち30石は芳春院が保有していました。


・走出村:139石
・
鬼屋村:127石
・
広瀬村:60石
・
日野尾村:57
・石
清水村:17石

領地だった村は上記の5ヶ村で、いずれも総持寺の近隣の村にあたります。

これらの領地を星野逸三郎を含む代官4人がリーダーとして支配していたほか、神職、大工棟梁、職人頭、日雇頭、山廻りなどの役職があり、それぞれに給金もしっかり与えられていました。

また、門前に住む人々は畳屋や檜物屋、麩商売、豆腐屋など総持寺御用達の商人が多く、総持寺と門前町商人の関係は非常に深いものだったことがわかります。

総持寺の経営

しかし、総持寺の空間構成をみて浅草寺と異なるのは境内の使い方です。
総持寺は浅草寺と異なり、境内に町屋や見世(店舗)がなく賃料収入がありませんでした。
それではどうやって収入を得ていたのでしょうか。

驚きなことに、幕末頃の総持寺の経営数値がわかる史料があるのです。
これをみると、寺領からの年貢米以外でもっとも大きな収入源は出世僧官金で1250両もの収入があったことがわかります。
これは先にも記した1日住持の料金です。年間250の僧侶がやってきて1回5両を支払ったことがわかります。
しかし経費の欄をみると、910両もかかっており、その経費も莫大なものでした。

それでは本当のメイン収入源はなんだったのでしょうか?
それはお金の貸付でした。
永代祈願料や祠堂金、末寺への貸付金の利息が収入源であり、先の表に「代官・勘定方・大橋勝之丞」と記されている人物がおり、その下に15人が所属していましたが、おそらくこの勘定方を中心に貸付金の管理が行われていたと考えられます。

総持寺は曹洞宗の本山として、信仰の中心となる存在でしたが、同時に現在の銀行にも匹敵するような存在でもあったのです。

<主な参考文献>

吉田伸之『巨大城下町江戸の分節構造』(山川出版社、2000年1月)

塚田孝「近世・寺院社会の地域史」(『歴史評論』2002年3月号)

吉田伸之「「塚田報告」批判」(『歴史評論』2002年3月号)

『金沢市図書館叢書(一)金沢町名帳』(平成8年3月、金沢市立図書館)

『新修門前町史 通史編』

『新修門前町史 資料編 総持寺』
 *総持寺に関する表はすべてこちらより

『新修門前町史 資料編 近世』

享和元年「公用留」(「天徳院文書」、金沢市立玉川図書館所蔵の写真版を利用)

ご案内

金沢の地元情報の記事作成、歴史にまつわる文章や講演のご依頼はこちらから

問い合わせフォーム

イベントは金沢歴活のフェイスブックページから。

金沢歴活フェイスブックページ

歴活イベントへの参加は申し込みフォームからお申込みくださいませ

申し込みフォーム

金沢を古地図で散歩しよう!

金沢古地図アプリ古今金沢ダウンロード

最新の歴活情報はこちらの無料メルマガ「歴活通信」がオススメです!
登録よろしくお願いいたします!

歴活通信

関連記事