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城下町金沢と江戸を比較する vol.6 城郭奥向編〜江戸城大奥と金沢城奥向〜

金沢と江戸。

2つの城下町を比較して、深堀してみるシリーズ第6弾です。

城下町を理解するにあたって、吉田伸之さんはその著書で城下町を「分節的」に把握することの有効性を述べられました。

ざっくり言うと、城下町は下記のような要素から構成されていて、これらの特徴をみることで、城下町ごとの特徴や共通点を見出そうということ。

・城郭
・武家屋敷
・町人地の大店社会
・町人地の市場社会
・寺院社会
・遊郭社会

そして、城下町金沢の武家屋敷のあり方から、江戸と金沢の共通点を見出しました。
そこで、ならばそれ以外の要素でも可能な限り比較してみよう。
それが今回の企画です。

第6回のテーマは城郭。
そして城郭でも今回取り上げるのは奥向。
女性だけの世界に注目してみようと思います。

江戸城の構造と大奥

江戸城本丸御殿の構造は大きく表・中奥・大奥の3つに分けられます。

は大名が将軍に拝謁する儀式が行われる場所。
中奥は将軍が日常生活を送る場所。

将軍が大奥に泊まらないときは中奥の寝所で眠ることになります。
身の回りの世話をする御小姓、御小納戸役、奥医師く
らいしか入れない場所で、こちらには女性はいません。
そして大奥は将軍の正室である御台所、側室、将軍のこども、大奥女中が生活しました。

大奥女中は住みこみで、常時500人程度が働いていました。
しかし11代将軍家斉のときは子供が55人もいたこともあって、1,000人近くが勤務していたそうです。

中奥と大奥の間は銅の塀で仕切られ、上と下の2本の御鈴廊下でつながっていました。
錠がかけられ、将軍が出入りするときは鈴が鳴らされます。
その際は基本的には上の廊下が使われました。

大奥の構造

大奥は「御殿向」「長局向」「広敷向」の3つの空間に分かれます。

御殿向は将軍の寝所、御座の間(将軍と奥女中の対面の場)、御台所や将軍の子供の居室、奥女中の詰所があります。
長局向は大奥女中の住居で4,211坪。大奥の3分の2のスペースを占めていました。
部屋数は100ありましたが、500人以上住んでいた大奥ですから、個室は「御年寄」などのトップクラスのみ。
将軍の側室もここに居住し、子供が生まれてようやく個室が与えられ、「御部屋様」と呼ばれるようになりました。
広敷向は大奥の事務や警護を行う男性役人が詰める場所。これを御広敷役人といいます。
長局向と広敷向の境を「七ツ口」といって、商人が出入りしました。

大奥女中の役職と暮らし

大奥で働く女中には格差があり、お目見え以上と以下では大きく性格が異なりました。
お目見え以上は旗本の娘が多く、家計の助けのために奉公しましたが、目見え以下は商家や農家の娘が多く、結婚の箔付けのための奉公がほとんどでした。
実際大奥女中に採用されるには、教養・礼儀作法、琴・三味線・踊りなどが必要で、ほぼ縁故採用か口入屋による紹介でした。

主要な役職を紹介していきましょう。

大奥のトップを御年寄(おとしより)と言います。

4・5人だけがなれる役職で、50石10人扶持の給料に300坪の屋敷が与えられました。
老女または局(つぼね)とも呼ばれ、春日局(かすがのつぼね)はまさにこの御年寄という役職でした。
ナンバー2は中年寄(ちゅうどしより)といいます。

その次のクラスの役職が御中臈(おちゅうろう)です。

高級旗本の娘であれば、7歳くらいで働き出し御小姓となります。
そして16歳くらいからこの役職になります。
お中臈は将軍お手付きになることが多く
、その場合は「お手付き中臈」と呼ばれ、将軍の子を妊娠したタイミングで部屋が個室が与えられました。

変わり種の役職に御伽坊主があります。
坊主は性別を超えた存在として扱われ、大奥だけでなく中奥にも出入りできた雑用係です。夜の営みの確認係でもありました。

一般の大奥女中の花形が表使(おもてづかい)です。
御広敷役人との応接役で頭がいい人が選ばれました。

贈答品も多く実入りもよかったようです。

御次(おつぎ)は献上品などの持ち運び役。
催し物の時は唄ったり踊ったりする役目もこなしていたので、芸達者が選ばれていたといいます。

御錠口衆(おじょうぐちしゅう)は中奥と大奥との連絡廊下「御鈴廊下」を監視する役目。

御切手(おきって)は外部と大奥の出入口である「七つ口」」を監視する役目。通行許可証である切手の有無を確認しました。

ほか、呉服の裁縫、お膳係、掃除係、火の番、お使いなどの雑務に携わる多くの大奥女中が江戸城大奥を支えていたのです。

加賀藩江戸藩邸・金沢城の奥向

ご存知のように江戸時代の大名は、奥方と世継ぎの子は江戸藩邸に住んでおり、側室や世継ぎでない子は国許に住んでいました。
そのため、加賀藩の奥向は江戸と金沢の2カ所にありました。

加賀藩江戸藩邸だと、このあたり。

現在だと東京大学薬学部本館あたりということになるでしょうか。

では金沢城ではどうなのでしょうか。
5代藩主、前田綱紀以降は側室と
その子女は二の丸御殿に居住していたといいます。

二の丸御殿の絵図でいうと、右側ということになりますね。

実際の場所はというと、

*金沢城公園の案内板より

現在の旧第六旅団司令部の場所になります。
上の地図と上下が反対ですね。

そしてすぐそばに、江戸城では七つ口に相当する切手門が今も残っています。

加賀藩の奥女中たち

江戸城の大奥女中は500人ほどでしたが、加賀藩の奥女中(*江戸城の大奥で勤務する人は大奥女中、大名の奥向で勤務する人は奥女中と呼ばれました)はいったい何人いたのでしょうか。

元禄12(1699)年の記録があります。
江戸と金沢トータルか、金沢城だけなのかがよくわかりませんが43人の奥女中の名前が記されています。

トップ7名の役職がわかりませんが、御袋と呼ばれる人がダントツの給与なので、この御袋が江戸城における御年寄だったと思われます。
そしてほか6名は中年寄にあたるのでしょう。
みな名前が菊野や葉山など名字のような名前なのが特徴的です。

『金澤古蹟志』という本には、「老女今井伝」という項目で、歌舞伎者で有名な前田慶次の孫だった今井という奥女中の記事が見受けられるので、金沢城では江戸城の「御年寄」のことを「老女」と呼んでいたと思われます。

*老女今井についてはこちらの記事をどうぞ
 古地図アプリ「古今金澤」でたどる金沢!前田慶次の孫ツアー

そして御中臈以下は、なみ、るいなど仮名2文字の名前になります。
御中臈と御小将はおそらく江戸城と同様に、上級加賀藩士の娘だったと思われ、そして御次と御仲居、女中ども、おはしたは江戸城同様、商家などの娘だったと思われます。

加賀藩でも江戸城大奥ほどではないにしても、奥向で働く女性たちの姿があったのです。

<参考文献>

石川県金沢城調査研究所編『よみがえる金沢城2』(2009年、石川県教育委員会 )

深井雅海『図解江戸城をよむー大奥 中奥 表向』(1997年、原書房)

安藤優一郎『大奥の女たちの明治維新』(2017年、朝日新書)

福田千鶴『近世武家社会の奥向構造』(2018年、吉川弘文館)

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