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金沢は他のまちと何が違うのか?〜寛永文化から見る金沢の特徴〜

金沢の特徴って何ですか?

よく聞かれるのです。
本来、私ごときが答えられるような問いでは到底ないのですが、かといって何も答えないわけにもいきません。
そこで、現状の私なりの回答を述べさせていただくと、

江戸時代初期の寛永文化の特徴を、唯一残すまちこそが金沢である

これこそが金沢の唯一無二の特徴ではないかと現状私は考えています。

なぜそう思うのか、そしてじゃあ寛永文化ってどんな文化だったのかということについて、これから微力ではありますが語ってみたいと思います。

寛永文化とは何か

寛永文化は京都と江戸で花開きますが、京都と江戸はまったく雰囲気が異なります。
江戸の寛永文化は儒学文化だったのに対し、京都の寛永文化は中世以来の伝統を引き継ぐ町衆と後水尾天皇を中心とする朝廷勢力が、江戸幕府に対抗する形で「源氏物語」「伊勢物語」などの古典文芸を中心に王朝文化の復興を目指したものです。

代表的な人物としては、小堀遠州、本阿弥光悦、俵屋宗達、野々村仁清などが挙げられるでしょう。光悦や宗達などのちに「琳派」とくくられるアーティストたちも含まれ、「琳派」のルーツの文化とも言えるかと思います。

寛永文化の時代背景と特徴

寛永文化の時期の一番のトピック。
それは戦争の終結です。
大坂の陣(慶長19・20年)が終わり、完全に戦争の不安が無くなったのです。反徳川派が完全敗北し、下克上の可能性が完全に失われた平和だけれどもある意味、希望も失われたそんな時期です。
昭和でいうならば学生運動が敗北し、団塊世代からしらけ世代・新人類世代が台頭する時期に相当すると言うと、わかりやすいかもしれません。

この時期の京都は、豊臣政権後の徳川幕府による畿内支配体制の確立が課題で、
上方八人衆体制(京都所司代、大坂町奉行、堺奉行、五畿内奉行)と呼ばれる仕組みが生み出された時期であるとともに、禁中並公家諸法度(慶長20年)が出され、
公家社会の秩序回復が求められ、天皇もその地位に相応しい教養をもつことを幕府に強制される時期でもありました。 

そんな時代背景をもとに、天皇・公家
、江戸幕府の京都支配担当者、
有力寺院、
茶の湯宗匠、
京都町衆などが京都の王朝文化を復興していくことになります。

しかし、そこにもうひとつのファクターがありました。
それが加賀藩です。初代前田利家のときから千利休に茶を学ぶなど、文化に造詣が深かった前田家ですが、三代前田利常のときは娘の富姫を八条宮
智忠親王に嫁がせるなど、さらに京都の寛永文化サロンに入り込みました。
そして、多くの文化人を金沢に呼び、金沢の文化を花開かせたのです。

上記は私が作った図ですが、これを見ていただくと京都で寛永文化をリードした人物で、前田利常と関係を持たない人物などほぼいないことがわかるかと思います。

とくに京都の町衆や茶人たちに関しては積極的に加賀藩で雇用するなど、強い影響力を持っていました。

残念ながら、富姫と八条宮智忠親王との間には子が生まれなかったのですが、生まれていたらまた違った歴史があったのではないかと思えてなりません。

寛永文化の特徴は、下克上の可能性がなくなったという時代背景を反映して、権力への反抗という思想的な要素はほぼありません。
洗練・優美なファッション性の高さが一番の特徴です。

上記の写真は同じ狩野派の絵師である狩野永徳と狩野探幽の作品ですが、戦国期の永徳は下克上の世の中を反映した大胆な絵ですが、寛永の探幽は非常に繊細な絵であることが一目で分かるかと思います。

*寛永文化の前との比較に関しては、以下の記事も参照ください
 茶道の歴史!千利休・古田織部・小堀遠州をサッカーとアイドルでた例えてみる

そして寛永文化は、比較的身分の高い人々による狭い範囲のサロン文化であることが特徴です。
この時代はまだ中間層と呼ばれる人々が育っておらず、身分の高い人々と庶民の間にかなりの経済的格差がありました。
そのため身分の高い人による、下々への文化の解放という、比較的上から目線な文化であることも特徴といえるでしょう。
そして数少ない上流階級のみの文化のため、分業が行われずマルチアーティストが多かったのも特徴です。

金沢で活躍した寛永文化人

このような流れを受けて、狩野派では狩野探幽門下の四天王に数えられた久住守景は金沢で活躍したことがわかっていますし、風神雷神図屏風の俵屋宗達は金沢に墓があります。

【金沢観光情報】伝俵屋宗達の墓

また、琳派の祖といわれる本阿弥光悦は加賀藩から録をもらっており、度々金沢を訪れ、子孫は加賀藩士として幕末まで続きました。

琳派の祖!本阿弥光悦と金沢〜ゆかりの地を巡る旅

小堀遠州も金沢に縁があり、森八という和菓子屋さんの「長生殿」というお菓子の文字を書いたり、名付けをしているほか、孫は加賀藩士となっています。

【金沢観光情報】子堀遠州の孫、新十郎の屋敷跡

金森宗和は公家と交流し、姫宗和と呼ばれたこの時期の茶人。
石川県立美術館にある国宝色絵雉香炉を製作した野々村仁清を見出しました。
この人も子供の代から加賀藩士となっています。

また、茶道裏千家の祖である千仙叟宗室も加賀藩士で、金沢にも屋敷がありました。

裏千家を興した千仙叟宗室の屋敷跡(味噌蔵町)

そして、千利休と長次郎のように、大樋長左衛門とペアを組んで素晴らしい作品を残します。

また、千仙叟宗室の父である千宗旦とペアを組んだ楽道入(のんこう)も、加賀藩に雇用こそされないものの、その作品は加賀藩士や金沢の町衆に愛され、のんこう加賀七種として、桔梗・善福寺・霞・此花・香久山・今枝・青山という名茶碗たちが金沢で愛されました。

まだまだ語りつくせませんが、前田利常は寛永文化に関わる人々を大勢金沢(隠居後は小松)に呼び寄せました。
そして金沢に寛永文化のマインドセットを根付かせたのです。

金沢についての謎に、
なぜ金沢の中心部には江戸時代以来の大掛かりな祭りがないのか?
というものがあるのですが、案外その答えは寛永文化に関わった人々の考え方にヒントがあるのではないかとも考えているのです。

<参考文献>

・熊倉功夫『寛永文化の研究』(熊倉功夫著作集第5巻、思文閣出版、2017年)
・冷泉為人監修『寛永文化のネットワーク』(思文閣出版、平成10年)
・安村敏信『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』(東京美術、2006年)
・牧孝治『加賀の茶道』(北國出版社、昭和58年)
・矢部良明『茶人・小堀遠州の正体』(角川選書、平成29年)
・谷晃『金森宗和』(宮帯出版社、2013年)
・朝尾直弘『近世封建社会の基礎構造』(御茶の水書房、1967年)
・朝尾直弘『鎖国』(小学館、1975年)
・横山方子「本阿弥光悦の子孫と金沢」(『金沢大学文化財学研究』)
・横山方子「金沢に生きた小堀遠州の一族」(『石川郷土史学会々誌』44号)
・横山方子「利常・遠州・佃源太左衛門」(『石川郷土史学会々誌』47号)
・安藤竜「加賀藩寛永文化列伝」vol1〜3(『Coupling』vol.38、39、41)

文責:安藤竜(アンドリュー)

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