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才色兼備のイケメン小姓、前田利常に殉ず!竹田市三郎忠種 加賀藩人物烈伝vol.3

竹田市三郎忠種(忠次ともいう)は、イケメンだったことから前田利常の小姓に抜擢。
以後、生涯側近として利常に仕え、利常が亡くなった際に殉死した人物です。

養父、金右衛門と市三郎

市三郎は元々は加賀藩の直臣ではありませんでした。
加賀八家のひとつ村井家の家臣で、大場采女(うねめ)という人物の庶子として生まれます。
のちに同じく加賀八家のひとつ横山家の家臣である竹田金右衛門の養子となりました。

元々越後の牢人だった養父の竹田金右衛門は、佐久間甚八郎、足軽頭の山田八右衛門、本多政重、横山大膳に仕え、横山家では300石でした。大坂の陣では首をひとつ獲る戦功をあげています。
しかし実子がなかったことから大場家から養子をとったのです。

市三郎にとって転機となったのは、寛永5(1628)年のこと。
容姿端麗ということで前田利常の子小姓に300石で召しだされたのです。

市三郎は顔だけでなく頭も良かったので利常の寵愛は他の追随を許さず、追々加増もあって家禄は3,530石に至りました。

屋敷があった場所は、現在の長町、聖霊教会のある場所です。
寛文金沢図では、竹田五郎左衛門とありますが、これは市三郎の長男にあたります。
五郎左衛門は寺社奉行や公事場奉行などを歴任し、文化面では詩や連歌をよくした文化人でもありました。

この場所に竹田家は明治維新まで住み続け、金沢駅方面には下屋敷もありました。

小姓としてのお仕事エピソード

前田利常談

市三郎は生まれついての利発者。少しも表裏がない。何でも隠密の大事な相談をしていたが、眼鏡にかなわないことを言うことはなかった。

前田直忠談

市三郎は常々、鷹野に出るにも浴衣と脇差の新しいものを綺麗にして鋏箱へ入れ持たせていた

菊池直辰談

ロウソクを持って利常とともに歩いていた時、次の間からどろどろとしたものが来た。
子小姓が騒いだとき、市三郎は小脇差をさしていたが、御次の間から大きな白いものがやって来たのを抱き、脇差を抜いて大きな白いものにさしあてながら、ロウソクが出されるのを待ったが、ロウソクをつけて見れば白犬の大きなものであった。
子供とは思えない行いだと誰もが感じ入った。

また市三郎と同僚の古市左近は御鷹方や御馬などの役目を主に勤めた。
稲が実り始める時期には、市三郎と左近は鷹野に出て稲を切って帰り利常の御前に持ってきて、米の実り具合の実態をご覧になり、実りの良し悪しの様子を確認したという。

ちなみに趣味は将棋。津田正忠とよく対局したそうです。

利常死去にともない殉死を遂げる

利常が亡くなったとき市三郎は43歳、子の五郎左衛門は16歳。
当時から殉死は若い者には似合わないことだと方々より言われたようです。
しかし常に殉死は覚悟していたようで、快くお供をしたといいます。

利常は万治元(1658)年10月12日の夜、小松城で突如亡くなりました。

竹田市三郎と同僚の古市左近の2人は江戸におり、利常の容体が急変したとの飛脚が江戸に着くやいなや、今枝民部に「我々は参る」と申し捨てて、昼夜を問わず7日で(通常の参勤交代の半分)馳せ帰りました。

市三郎の妻は浅井大助の娘でしたが、幼少のとき父母が亡くなり、お城で育ってから市三郎に嫁ぎました。
女中にはまれな心がけで、物事にも利発だったといいます。
彼女はすぐに飛脚を呼び、飛脚に「市三郎殿に会い次第この文を渡すように」と言った。そこには

わざと飛脚を参らせました。殿様がお亡くなりになり声もなく、私もあなたと同じ思いです。言うまでもありませんし、日頃から心がけていること(殉死すること)はおろかではないと思いますが、必ず自宅へ帰ることは遠慮なさってください。息子の五郎左衛門はあなたにお会いするため出迎えに参ります。
でも私は昨年の御いとまごいが今生の別れと思っていますので、今更お目にかかりたくもございません。
とにかく生死は世の中の掟。念のため一筆申し上げます。

と書いてあった。

市三郎は途中でこの文を見ておおいに笑い、硯をとりよせて返事を書いた。

殿様のことはあなたの思っている通り。さてまた覚悟の事(殉死)はおろかなことである。
詳細は五郎左衛門に伝える。

(イマイチこのやりとりの意味がとりにくい。殉死はおろかではないので、決心が鈍らないように会わないようにするという妻の手紙に、殉死は愚かだがやらざるを得ないのだと伝えたのか?)

とさらさらと書留て飛脚に渡した。

その後、市三郎と左近の2人は一緒に利常の隠居城だった小松城へ登城した。
御次の間で人々に対面して涙を流し、河合傳次を招き、最後に上下を拝領しようといって2つ取り出させ、謹んで頂戴し声をあげて泣いたという。
その後、御霊前に参って拝礼・焼香して御次の間へ退出した。

台所で湯漬けをこしらえて、感謝しながら三度いただいてから、乗り物にのって小松の日蓮宗本成寺へ急ぎます。黄泉の国へのお供の思いたちを詳しく語り、敷皮の上に居直って、

我が主君と同じ信仰になり、黄泉の国の旅行のお供をするならば、以後は日蓮宗から禅宗になるべきだ。生きているうちは先祖代々の宗門のため日蓮宗だったが、私は禅宗を信仰して命を落とす。

そういって懐中から辞世の歌をとりだし、三方の上に起き、同じ座の人々へ一礼。
脇差を押しいただき腹を十文字に切るところで、和田十郎右衛門が刀を振り上げ、無事殉死を遂げたのであった。

君がいにし しでの山路の 道芝も おもひきるには さわらざりけり

死後もその容貌は微笑んでおり、まるで生きているかのようだったという。

野田山墓地にある竹田市三郎の墓。

品川左門など同じく前田利常に殉死した家臣とともに利常の墓の隣で眠っている。

地図の左下のCが前田利常の墓。
その隣の26が竹田市三郎の墓の位置です。

<参考文献など>

『金澤古蹟志』(金沢市立図書館ホームページ)

「竹田市三郎邸跡」「竹田市三郎忠種伝話」
 巻22、14・15ページ
 巻22、16・17ページ

「横山氏家士竹田金右衛門伝」の項目
 巻30、51ページ
 巻30、52・53ページ

『三壺聞書』(国立国会図書館デジタルコレクション)

「追腹衆の事」の項目。コマ番号175/191 

『加能郷土辞彙』(金沢市立図書館ホームページ)

「竹田金右衛門」の項目
 514ページ

『加賀藩初期の侍帳』(国立国会図書館デジタルコレクション)

「寛永十九年小松侍帳」の「三千百石 枇杷島 竹田市三郎」の項目。コマ番号74/146

「寛文元年侍帳」の「三千六百三十石 竹田五郎左衛門」の項目。コマ番号82/146

 加賀藩初期の侍帳のリンク

『加賀藩史料』(東京大学史料編纂所近世編年データベース)

「前田利常小松城に薨ず」の項目

『加賀藩史稿 第4巻 列伝第2』

「竹田忠次」の項目
 古絵図・貴重書ギャラリー – 富山県立図書館。37〜42ページ

文責:安藤竜(アンドリュー)

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