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今枝内記重直 加賀藩人物烈伝vol.4

まさに文武両道!和歌・能・茶・剣に通じた武人 
今枝内記重直 加賀藩人物烈伝vol.4

現在リニューアル工事が行われている(平成30年9月6日現在)金沢市文化ホール。
長町武家屋敷跡や尾山神社からもほど近く、アーティストのライブが日々行われ、まさに金沢の文化を支える場所といえるでしょう。

しかし、そんな金沢市文化ホールの場所に江戸時代、金沢有数の文化人が住んでいたことは意外と知られていないようです。

その名は今枝内記重直

今回はそんなアート大好き武士のお話。

今枝家のルーツ

金沢市文化ホールの位置は、古地図アプリ古今金澤を使うと、今枝民部という人の屋敷があったことがわかります。

*古地図アプリ古今金澤のダウンロードはこちらから

そのお父さんこそが今枝内記重直です。

そんな今枝内記重直について語る前に、まずは今枝家のルーツから解説していきましょう。

今枝家の祖先は次郎丸といい、元々は美濃国今枝郷に住んだので今枝と称したといいます。
今枝内記重直の父は、忠光または八郎左衛門と称し、美濃の国で内藤伊賀守に仕え、6,000石あまりの領地を治めていました。
後に斎藤道三に仕え、斉藤家のもとで多くの軍功をあげます。

父の忠光のエピソードとしては、

ある夜、堤防の上を歩いていると、道路側に人がいた。
背が高く異常な顔をしていてとっても奇妙。忠光は刀を抜きます。切ると頭がぽろんと地面に落ちたので、忠光はそのまま帰ってしまいました。
翌朝、現地に行って見てみると、切った頭はなんと石で出来たお地蔵様。
その刀は青江貞次の作でしたが、石の地蔵を叩っ切ることが出来たということで、こののち地蔵丸という名がつくことになったといいます。

おっちょこちょいなのか、凄腕なのか良くわかりませんが、こんなエピソードが残っています。

今枝内記重直の出世街道

今枝内記重直は通称、弥八(郎)。
織田信長に仕え、17歳のときに姉川の戦いで首級を獲得。戦功をあげます。
元々斉藤家に仕えていたこともあって、同じく斉藤家に仕えていた稲葉伊予守(一鉄)の軍に所属しました。
翌年、織田信長は伊勢の長島一向一揆を討伐しますが、そのときは伊賀伊賀守(安藤守就)の軍に所属。
一向一揆勢を掃討してさらに名をあげます。

本能寺の変の後は織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いにも参戦しました。

この後、豊臣秀吉に仕え豊臣秀次の軍に所属。
加増もあって、文禄2(1594)年には尾張国海東郡などで4,300石の領地を治めることになります。

翌年に豊臣秀次の家臣は豊臣性を賜り、官位に叙任されるのですが、このときに重直は従五位下、内記に任命されました。内記というのは元来、文筆に優れた者が就任した役職だったので、和歌を愛する重直にはぴったりだといえるでしょう。

豊臣秀次が切腹となってからは、しばらく浪人をしていましたが、ほどなく前田利家の長男、利長に招かれ北陸へとやってきます。越中守山城(高岡市)で利長に仕え3,000石を賜りました。のちに加増もあって6,000石となります。

関ヶ原の戦いでは横山長知に属して従軍しましたが、とくに戦功などはなかったようです。
その後、利長が高岡に隠居すると、一緒に高岡に移ることになります。

慶長12(1607)年には、駿府や江戸に呼ばれます。
2代将軍秀忠は観世・金春の能を好んだのですが、重直も謡曲を好んだからだといいます。

慶長18(1613)年からは前田利常に仕え、2度の大坂の陣にも従軍。
元和5(1619)年に66歳で隠居。剃髪して名前を宗二と名乗りました。
このとき7,000石を養子の直恒に譲り、重直は500石を自分の分にしました

隠居後は津田道供と並んで御咄衆となり、古今の軍事や武士の功名などの話をよく語ったといいます。

ある日、前田利常が重直の屋敷を訪ねたところ、茶の湯でもてなしをうけました。
利常はその前日に、西尾隼人に藤原俊成の5首の和歌の掛け軸と芦屋の釜を持たせ重直に与えており、その御礼の茶会だったと思われます。重直は(相州住)秋廣の脇差を西尾隼人への引き出物としてお返したそうです。

重直の人となりは、贅沢をせず温厚で、過去の功績を誇らず、忠勤を怠らないという、非常にできた人だったようです。
謡曲を好み、和歌を詠むことを好み、茶の湯を嗜み、剣の達人でもあった重直ですが、寛永4(1627)年12月23日没。74歳でした。

ちなみに茶の湯の楽茶碗で有名な楽家の3代目、楽道入の作品が加賀に七つ残っており、これを「のんこう加賀七種」と呼びますが、このうちのひとつに「今枝」という銘の茶碗があります。
おそらくはこの今枝内記が手に入れたものであろうと思われるのです。

明智光秀とのエピソード

重直は信長に仕えてから、信長に従って安土城へ登城したことがありました。
諸大名へ挨拶をしていると、その中に40歳くらいの大名がいて、

久しぶりにお目にかかりました

といってくる。宗二は誰?となったのですが、

しばらくして、その男はそばに寄ってきて言います。

私は惟任日向守(明智光秀)です。昔、長良川で鮎をいただきました。

それではじめて重直は思い出します。

それは、まだ重直が美濃国に領地を持っていたときのことでした。
重直は領地内にあった長良川で舟に乗り、網を打たせて鮎をとっていました。
すると岸の上に男が一人立っていました。
木綿の服を着て、股引・脚絆をつけて、柿の布羽織を着て、刀の柄に状箱をくくりつけてといった貧しい風情の男でした。

男は重直を見て、

その鮎を一匹いただけませんか

といいます。
重直は舟の中に取り置いていた鮎を手にすくって岸へ投げ上げます。
すると、その男は草を抜いて鮎につなぎ、鮎を押し頂いて、喜んで持って行きました。

その貧しい男が、すなわち明智光秀であったのです。

そのときから7・8年後のことでした。

男の出世というものは分からないものだ。

と重直は加賀でよく話したといいます。

前田光高・綱紀2代の守役!今枝民部直恒

重直のあとを継いだのが今枝民部直恒。幼名を阿萬といいました。
じつは重直の実の子ではなく、日置猪右衛門正勝の5男で、母は重直の妹にあたる人でした。

美濃国岐阜出身。12歳の時に加賀にやってきて、のちに前田利長の子小姓となります。
2度の大坂の陣では従軍するも、大坂城の城門に入った際に敵が柱に隠れており、銃で狙撃されて左手を負傷。有馬温泉で湯治を行うという事態となります。

元和3年に将軍秀忠が江戸藩邸を訪問した際、宝刀と良馬を献上して白銀を賜りました。
のち秀忠と家光に謁見します。

重直の隠居後はあとをつぎ7,000石を拝領。

元和9(1623)年に4代光高の守役となり、寛永9(1632)年12月に2,000石加増。
あわせて9,000石となりました。

光高が家督をつぎ加賀入国の後は、さらに2,000石と藤原定家の文の掛け軸を賜り、あわせて11,000石を領することになります。
まさに順風満帆の人生を歩んでいた直恒。

しかし正保2(1645)年、まさかの事態が発生します。

光高の若すぎる死です。

直恒は守役として、光高の後を追って殉死しようとしました。
しかし、光高の父、3代利常が止めるよう説得します。

(5代)綱紀はまだ3歳。これでは前田家も滅んでしまうかもしれない。私はもう衰えており綱紀の面倒をみることができない。これは国家存亡の危機である。誰に我が子を託せば良いのだろうか。(あなたしかいない!)

と再三説得。直恒は感動して涙を流し、快く5代綱紀の守役を引き受けるのです。

結果、また世継ぎの守役となった直恒。
慶安4(1651)年、さらに1,000石が加増され、今枝家は12,500石となりました。
しかし同年、直恒は病気となり、vol.3でとりあげた竹田市三郎の必死の看病もむなしく、12月17日に江戸藩邸にて没。享年65歳でした。

*才色兼備のイケメン小姓、前田利常に殉ず!竹田市三郎忠種 加賀藩人物烈伝vol.3

病中は利常や綱紀が加賀の家族の屋敷に駕籠をやって病態を連絡。
3代将軍徳川家光も直恒の功を賞賛したといいます。

その後、直恒の子の近義も名を民部と称し、父のあとを継いで綱紀の守役となりました。
直恒・近義の親子は、4代光高・5代綱紀と続けての守役として、江戸に終始在住し、若い藩主の教育にあたったのです。

<参考文献など>

『金澤古蹟志』(金沢市立図書館ホームページ)

「今枝内記邸跡」「今枝内記重直伝」「今枝民部直恒伝」
 巻24、8・9ページ
 巻24、10・11ページ

『加能郷土辞彙』(金沢市立図書館ホームページ)

「今枝重直」の項目
 62ページ
「今枝直恒」の項目
 63ページ

『加賀藩初期の侍帳』(国立国会図書館デジタルコレクション)

「慶長十年富山侍帳」の「六千石 今枝宗二」の項目。コマ番号9/146

「慶長之侍帳」の「六千石 百九十人 今枝内記直重」「千五百石 四拾五人 今枝民部直恒」の項目。コマ番号19/146

「元和之侍帳」の「八千石(千石加録)今枝民部」の項目。コマ番号33/146

「寛永四年侍帳」の「七千石 加弐千石 今枝民部」の項目。コマ番号52/146

「寛文元年侍帳」の「壱萬弐千五百石内弐千五百石与力 今枝民部」の項目。コマ番号83/146

 加賀藩初期の侍帳のリンク

『加賀藩史料』(東京大学史料編纂所近世編年データベース)

「前田利長、今枝重直を禄して家臣とす」の項目

今枝宗二重直、卒す」の項目

今枝民部直恒、没す」の項目

『加賀藩史稿 第8巻 列伝第6』

「今枝重直 子直恒」の項目
 古絵図・貴重書ギャラリー – 富山県立図書館。26〜34ページ

牧孝治『加賀の茶道』(昭和58年、北國出版社)157〜159ページ。

 

文責:安藤竜(アンドリュー)

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