近江の戦国大名浅井長政の一族!大坂城でも活躍した浅井源右衛門一政

加賀藩人物烈伝も5回目となりました。
加賀藩は藩士の数も多く、様々なバックボーンを持つ藩士が揃っていますが、今回の浅井一政もなかなか独特なキャリアの持ち主です。
浅井一政はその名字の通り、近江の戦国大名浅井長政の一族です。
はじめは正詳と名乗りました。
祖父は掃部(かもん)。父は采女(うねめ)と言って、ともに浅井長政に仕えました。
浅井長政が滅亡してから、父の采女は越前の敦賀にいたといいます。
慶長の頃、浅井一政は浅井長政の娘の淀殿のつてをたどったのか、豊臣秀頼に仕えることになります。
しかし、「浅井」は豊臣家にとって気をつかう名字だったと思われ、名字を今木(こんぼく)と改めました。
目次
大坂の陣での浅井一政
秀頼に仕えてからは、その伝役(もりやく)だった片桐且元の配下となります。
しかし片桐且元が方広寺の鐘銘事件で大坂城を退去してからは、謀反を警戒されることになりました。
そのため大坂冬の陣では出陣せず。夏の陣のときも秀頼の使番(使者の役目)として大坂城内にいました。
しかし真田幸村の本営に使者として赴いた際、茶臼山を降りるあたりでこらえきれなくなり、誰よりも敵の近くにいき、敵兵1人を槍で打ち伏せて首級を得ます。
秀頼切腹の準備をするも邪魔される
戦いも決着が着き、いよいよ大坂落城という頃。
一政は城内に戻り、豊臣秀頼に尋ねます。
自害はどこでなさるのか?
秀頼は
天守閣に用意せよ
と答えたので、一政は天守閣に畳を重ねて敷き、その上に火薬を置きました。
しかし秀頼が天守閣に登った際、大野治長がやってきて
味方の軍勢が盛り返しました!
と嘘の報告をして自害を止めようとます。一政は
味方が盛り返したというのは偽りである。最期の時をいたずらに伸ばせば生き恥をさらすことになり、秀頼の名前に傷がつく
と反論しますが、結局秀頼は天守閣を降りるのでありました。
切腹の手本を見せようとするも、またもや邪魔される
しかし、天守閣から月見矢倉に入った秀頼。
下を見ると多くの敵軍が見えます。
やはりもう最期なのだと意気消沈した一同。
そこに一政は
僭越ながら自分が手本を示そう
と脇差を抜き切腹しようとします。
しかし、ここでもあきらめきれない毛利勝永らに邪魔をされ、矢倉から追い出されてしまうのでありました。
浅井の血筋を活かしての助命嘆願
その後、秀頼から依頼され、一政は淀殿の妹である初(常高院)が嫁いでいる京極忠高の本営に使者として向かうことになります。
淀殿の助命嘆願だったと思われます。
しかし役目を終えて大坂城に戻ろうとしたとき、井伊直孝に捕らえられてしまいます。
一政は大坂城へ戻ることを願いますが許されず、その間に大坂城は落城は炎に包まれ、秀頼も自害してしまったのでした。
大坂の陣後の浅井一政
大坂の陣が終わると、一政は京都に護送されました。
処刑されることもありえましたが、おそらく初(常高院)の助命嘆願があったと思われ、一命をとりとめます。
その後は、片桐孝利から500石を与えられました。
以前に孝利の父、片桐且元が家康に謁見したことで、大野治長らに謀反を疑われて殺されそうになっていたとき、一政はひそかに且元に知らせたことがあったのです。
このことを且元はとても恩に思っており、子の片桐孝利がその恩に報いたのでした。
前田利常に招かれ加賀藩士となる
元和の頃、加賀藩主の前田利常の求めに応じて1000石で仕えることになります。
利常の正室が浅井長政の3女である江姫の娘・珠姫だったことによります。
このとき名字も浅井に戻し、馬廻組に所属しました。
その後、一政は珠姫の子である4代光高の伝役(もりやく)となり、のちに側用人となります。
光高が藩主になった際には300石を加増されました。
一政は普段、書を読み学問を好んだので、同じく学問好きの光高から書籍を借りて、毎晩のように読んでいたといいます。
屋敷は金沢の中心地、南町交差点にある明治安田生命ビルの裏の駐車場の位置にありました。
のちに、もう老いてお役に立てないといって隠居。
越中氷見に移り住むことになります。
一政の隠居を光高はとても残念がったといいます。
4代光高の死後、殉死を遂げる
正保2(1646)年、光高が若くして江戸で亡くなります。
その棺が金沢に帰ってくると、一政はすぐに迎えにいき、殉死者はいるのかと周囲に聞きました。
いない
と聞くと、一政は嘆き悲しみ、
じいが必ず地下にも従います
と残し、殉死をしました。
ときに4月25日のことでした。
周囲の多くの人々は殉死を止めようとしましたが、光高の父である前田利常は
源右か。はるか昔、大坂で腹を切ろうと望んだ男だ。さまたげてはならない、さまたげてはならない
と語ったそうです。
浅井一政の最期の姿
一政は普段子供に
袴の紐の結び方が雑だと良くない
と常に語っていました。
気をつけて念入りに結び、余りの分はしっかりと挟む様にと伝えていました。
そしてまさに切腹の際、袷(あわせ)をふたつ着ていたのですが、上を脱ぎ、下に来ていた白い袷に袴を着けて、紐をしっかりとしめ、両わなに結び、しっかりとひきあわせて両方を挟み、おしはだを脱いで、切腹していたといいます。
普段、子供に教えていたとおりの実直な姿でした。
墓は現在、野田山墓地の前田光高の墓の後ろに、同じく光高に殉死した小篠善四郎と並んで埋葬されています。
その後、浅井家は歌学・連歌で名をはせる長男の源右衛門政右が継ぐことになります。
そして幕末まで浅井の名を残していったのです。
<参考文献>
『金澤古蹟志』第9編巻24
「浅井源右衛門邸跡」「浅井源右衛門一政伝話」「浅井源右衛門政右伝話」
15ページ、16・17ページ、18ページ
堀智博「豊臣家中からみた大坂の陣:大阪落人浅井一政の戦功覚書を題材として」(『共立女子大学文芸学部紀要』63巻、2017年)
「寛永四年侍帳」「犬千代(光高)様衆」「一、千石 浅井源右衛門」56/146コマ
「寛文元年侍帳」「小姓」「一、千五百石 内弐百石頭料 浅井源右衛門」84/146コマ
文責:安藤竜(アンドリュー)
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