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<書評>木越隆三『加賀藩改作法の地域的展開』

本書は加賀藩の農業政策である改作法について、詳細に検討した労作です。
あまりにも面白く貪るように読んでしまったので、内容についての書評を書いてみました。
誤読などもあるかと思いますが、ご容赦くださいませ。

さて、本書のテーマは多岐に渡りますが、大きく分けると2点です。

これまで改作法は、3代藩主前田利常が基礎を築き、5代藩主綱紀が継承したと主に考えられてきました。しかし、利常と綱紀の政策意図は明らかに異なっており分けて考える必要がある。そして本書ではまず「利常の改作法」について分析をするということが1点です。
そしてもう1点は、加賀藩は3カ国10郡にまたがる広大な領地を誇ります。これまではそのことを一切考慮してきませんでした。なんとなく全ての領地で一律に改作法が実施されたと考えられてきました。しかし実際にはそんなこと有り得るはずがなく、それぞれの地域特性に応じての改作法が実施されたはずであり、その実態を解明するというものです。

まず1章で戦前以来の改作法に関する研究史がまとめられ、2章で1点目の課題に迫ります。
そこでは、利常の改作法は「御開作」と称されていたこと。そしてその本質は百姓救済のための米や銀の貸付にあったことが述べられます。
従来、改作法は利常による増税政策だと単純に考えられ、また後世の加賀藩主もそう考えていました。しかしそうではなかったのです。
まずは村ごとに困窮度の調査がなされ、それに応じて貸付を行い農村を復興させ、百姓たちの「はげみ」を喚起することが行われました。その上で年貢率のアップや小物成と呼ばれた産業に関わる税が設定されたのです。また同時に加賀藩士たちが自分自身で領地の徴税を行う行為も廃止され、藩が直轄地も藩士の領地も一律に農政を行う体制が実現したのです。
そして後者に関しては「御開作」という言葉は用いられてはいませんでした。
あくまでも「利常の改作法」は百姓の救済策であり、その上での増税政策であり藩制の改革だったのです。


そして3章以降で能登奥郡、能登口郡、能登口郡の長氏領、利常隠居領の能美郡・新川郡の個別分析に入ります。
まず能登奥郡ですが、奥郡の特徴は何と言っても元々藩の直轄地だったということです。奥郡は揚げ浜塩の専売制を行うべく稲葉左近の発案で直轄地化されていました。
つまり、加賀藩士による領地の徴税行為を廃止するという目的はすでに達成済みでした。そのため奥郡の「御開作」は1年程度で終了しました。
その後、利常は奥郡の農村支配体制を大きく変化させます。
利常は武士による農村支配に限界を感じていました。
農村支配の実務は武士ではなく、百姓が担う方が効果的であり、そのための教育をしなくてはならないと考えたのです。
実際には十村と呼ばれる有力百姓がそれを担うことになりました。
武士の代官を減らし、百姓である十村を代官に抜擢したのです。しかし戦国時代までは武士だったルーツを持つ十村では成果が上がらず十村の交代が行われ、何なら有力な者を他地域から引っ越しさせるといったことまでありました。また小松に呼びつけての利常による直接の指導も多く行われ、のちの綱紀の代に至り十村は武士に変わって農村支配の実務を完全に担うことになるのです。
また利常の増税に対する考え方は独特のものがあり、このような素晴らしい政策を行ったのだから、百姓たちは自分から増税を願い出るべきであると利常は考えました。
そして、実際にどれほどの増税が各村では適正なのかを考える行為は、十村が担うことになりました。十村はこの難題に苦しみ、利常からの叱責も受け、十村間の人間関係も悪化しましたが、何とかそれを乗り越え、農村の支配実現の主体として成長して行くのです。

口郡は奥郡と違って加賀藩士の領地が多くあり、藩士による徴税行為の禁止は大きなテーマでした。まずは農村救済策である「御開作」を希望する村に対して行い、その村に関しては藩士が下代と呼ばれる徴税官を領地に送ることを禁じました。
また改作地外御奉行を置き、それ以外の村でも彼らの許可なしに勝手な行為はできないようにしたのです。
藩の救済策に頼らざるを得ない村にしてしまった責任を追及する形で、藩士の徴税権を奪っていったのです。
また、口郡の「利常の改作法」の特徴として、十村番代と呼ばれる町人が活躍したことがあります。
十村は交代で利常のいる小松に詰めて指示を受けていましたが、少しずつ利常と村との間に入って調整をする存在が現れるようになったのです。
他、口郡では河川のインフラ整備も行われました。
これらの政策によって、利常は「蟠(わだかま)り百姓」を「正直百姓」へと生まれ変わらせることを目指しました。というよりは、ここまでやってまだ「蟠り百姓」な者は追い出してしまえといった論調だったようですが。
領主が一所懸命に百姓が農業をするのに不自由のない環境を作るかわりに、百姓もそれに応えるべきであると利常は考え、そしてそれは百姓の自主的な納税という形で実現するべきものだったのです。

口郡のうち鹿島郡の半分は、近世に至っても長家が実質的に支配をしていました。
織田信長に従って北陸にやってきた前田家と異なり、鎌倉時代以来能登に本拠を置いていた長家は加賀藩内でも独自のポジションであり、「利常の改作法」の適用外の地域となっていたのです。
そんな長家の領地では「利常の改作法」は行われませんでしたが、当主の長連頼は明らかに「利常の改作法」を意識して改革に取り組んでいました。しかし守旧派の反発により断念します。
これは最終的に浦野事件と呼ばれる御家騒動となり、長家の領地は加賀・越中に所替となりました。これによって利常の死後、綱紀の代になって本格的に「改作法」が行われますが、これは明らかに「利常の改作法」ではなく「綱紀の改作法」でした。
その特徴としては、救済としての側面は弱く年貢増徴の要素のみでしたが、「利常の改作法」ほど年貢増徴の意欲が強くないというものでした。政策の主目的は家臣たちの徴税権の廃止にあったのです。

最後は利常の隠居領です。利常の隠居領は加賀の能美郡と越中の新川郡の2ヶ所に大きく分布していました。この2地域は大きく特徴が異なりましたが、どちらも最終的に税率に関しては比較的優遇されました。
能美郡は先進地域で農業生産力も高かったのですが、比較的税率は低い郡でした。
新田開発の余地はほぼなかったため増税を目指しましたが、山内と呼ばれた鳥越付近の領地だけは一揆の影響か発展の遅れかで増税しきれず、他郡と比べても低い税率となりました。
また新川郡は後進地域で未開発の地が多く、新田開発を行うことで大きく石高が増加しました。そして新田開発してすぐは低税率にするものですが、これをすぐに本来の税率にすることで増税を図りました。しかし実際の農村の状況から考えると高い税率だったために、逆に税率を下げることになったのです。
結果として、利常隠居領では他郡に比べて低い税率に終わりましたが、これはあくまで実際の農村の状況に応じて政策を実施した結果であり、自分の領地のみ優遇したというわけではありませんでした。逆にこのような難しい領地だったからこそ隠居領としたとも考えられるのです。

最後に「利常の改作法」が「綱紀の改作法」でどう変化していったのか。
利常と綱紀の政治思想は大きく違いがありました。
利常は領主が農村を救済し整備をする代わりに、百姓に対しても相応の努力を求めました。
自分も努力する代わりに、努力しない百姓を排除するのが利常の思想です。
しかし綱紀は異なります。「非人小屋」と呼ばれる窮民を救済する福祉施設を設置したように、全ての百姓を救済しようとしました。努力しない百姓にも寄り添って助けようとしたのです。
その思想の違いを認識することで、綱紀以降の政策も見ていく必要があるのです。

「利常の改作法」にこだわって分析が行われた本書によって、前田利常と前田綱紀という2人の藩主の政治思想がどのようなものだったのかが鮮明になりました。そして2人の政策は連続しているものと従来考えられていましたが、それが間違いであることが証明されたと言えます。
連続面はもちろんありますが、明らかに断絶している部分があり、それは2人の思想の違いによるものだったのです。
コンビニエンスストアのスーパーバイザーをしていた私には、利常はセブン-イレブンで綱紀はローソンやファミリーマートのようにも思えます。
どちらが良いかの判断は難しいですがそれぞれに長所短所があり、それを追及していく必要があるでしょう。

また長家領の「改作法」の分析では、「所替」がテーマになりました。
藤田達生さんは『藩とは何か』の中で、藩の誕生のベースがまさに「所替」であると述べられていますが、加賀藩も「所替」を活用することで藩を形成していったといえます。

他、個人的に興味を持ったのは十村番代という町人の存在です。畿内近国において村田路人さんが「用聞」と呼ばれる町人が農村支配の潤滑油として活躍したことを発見しましたが、それに相当する存在なのだと思われます。

このように、本書は加賀藩の政治史についてだけでなく、もっと幅広く議論ができる内容が詰まっていると考えます。今後は本書の成果を踏まえて他藩や畿内近国の事例などとも比較しての大きな構想が語られることだと思いますが、非常に楽しみでなりません。

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