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明智光秀の出生年に関しての仮説検討(大河ドラマ「麒麟がくる」放映記念)

大河ドラマ「麒麟がくる」がもうすぐスタートします。
そこで、今回は明智光秀について私が近年考えていたことについて書いてみました。

明智光秀の出生年に関しては、大きく二つの説があります。
一つは享禄元(1528)年説で、もう一つは永正13(1516)年説です。
しかし私は、そこに第3の説として、天文9(1540)年説というのを追加したい。これが本稿の趣旨です。

天文9年説に関しては、金子拓さんが「検討に値するのかもしれない」とわずかに触れる程度で、ほとんど検討されていないように思われます。もし天文9年説が成立した場合、享年は43歳となり、明智光秀は織田信長の6つ下、羽柴秀吉よりも3つ下ということになります。
ただ、残念ながら現状では確実な証拠はなく、単なる仮説に過ぎません。
ですが、本稿ではまずそう考えるきっかけとなった史料を紹介し、今後の研究につなげていきたいと考えています。

紹介したい史料は『加賀藩史料』の、寛永4年「十二月廿三日今枝宗二重直卒す。」の項目に掲載されている「耳底記」という史料から抜粋した部分です。

 

原本はこちら

内容は、

今枝宗仁(若い頃の名は内記)は元々、美濃郡山の城主で斎藤龍興の傘下にあった。
のち織田信長に仕え、安土城へお礼に参上した。
信長に会い、諸大名と挨拶をしていたら、その中に40歳くらいの大名がいて、「久々にお目にかかった」と言ってきた。
宗仁はその人物に記憶がなかった。
しばらくして、さっきの大名が宗仁のそばにより、

「私は惟任日向守である。以前、長良川で鮎をいただいた」

それを聞いて宗仁は初めて思い出した。
宗仁が自身の領内を流れる長良川で舟に乗り、網を打たせて鮎を採っていたところ、岸の上に男が1人立っていた。
木綿の衣服を着て、股引に脚絆をし、柿色の布羽織を着て、刀の柄に状箱をくくりつけ担いでいた。
男は宗仁を見て「その鮎を一ついただけませんか」と言った。
宗仁は舟の中に取り置いていた鮎を手にすくって、岸へ投げると7・8匹ほどあった。かの男は草を抜き、鮎を繋ぎなおして

「かたじけない。夕食のおかずになる」

と喜んで行った。
どこかの足軽か飛脚のような姿であった。
これがすなわち日向守である。
その間、わずかに7・8年である。

「男子は知らぬ間に出世をするものだ」。

と、宗仁はのちに加賀で話したと言う。

惟任日向守はもちろん明智光秀を指します。
ここで重要なのは、安土城で今枝重直が明智光秀に会った際、光秀のことを40歳くらいだと思ったという部分です。

これがいつの出来事かはわかりませんが、文章からこの安土城への登城は、明智光秀や今枝重直だけでなく信長家臣団のほとんどが揃う行事だということが伺えます。
早島大祐「明智光秀の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成 第2版』2016年、思文閣出版)によると、天正6(1578)年の元日に光秀は、安土で年賀に参加しているので、この時のエピソードかもしれません。
なんにせよ、安土城築城から本能寺の変までの間のことは確かです。

仮にこれが天正6年の出来事だとしたら本能寺の変はその4年後です。
光秀の出生年が、もし天文9年であれば享年は43歳。
ほぼぴったりではありませんか。
ちなみに、ここで天文9年と限定する理由は、宇土家譜という史料に光秀が子年生まれだったことが記されているとの金子氏の指摘によります。

また、ここには7・8年前まで光秀は足軽か飛脚のような姿だったとあります。
早島氏によると、永禄12(1569)年まで光秀は足利義昭の足軽衆だったことがわかっており、この辺りもぴったりなのです。

ただ残念ながら、この史料から分かることはここまでです。

あくまでも40歳くらいに「見えた」だけであり、光秀が若づくりだっただけかもしれません。確実な天文9年説の証拠については、今後の課題としたいと思います。

<参考文献>

金子拓『信長家臣明智光秀』(2019年、平凡社新書)

早島大祐「明智光秀の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成 第2版』2016年、思文閣出版)

早島大祐『明智光秀ー牢人医師はなぜ謀反人となったかー』(2019年、NHK出版新書)

文責:安藤竜(アンドリュー)
   2020年1月16日記

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