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5代将軍徳川綱吉の時代〜江戸の高度成長期。元禄時代の世の中とは〜

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代は、当時の元号から一般的に元禄時代と呼ばれます。
徳川綱吉というと、生類憐みの令がすぐに思い浮かびます。人より犬が大切だった悪夢のような時代というイメージが強いですが、最近は治安を良くしたり福祉を徹底する政策が行われた部分が再評価されています。
今回は元禄時代の世の中について、対外関係、社会、技術・環境、政治、経済、文化の6つの切り口から語ってみようと思います。

元禄時代の東アジア情勢

まず最初は当時の対外関係です。
江戸時代の初期の東アジアで一番のトピックは、中国が「明」という国から「清」という国に変わったことです。
中国ではずっと内乱が続いていましたが、元禄の頃にはようやく終息を迎え、東アジアはようやく平和と安定の時期を迎えることになるのです。
また朝鮮は明との関係が強かったため、清との関係が良くなく日本と友好関係を持っておきたいという事情がありました。

結果、中国商船がたくさん長崎に来航して長崎貿易も盛んになったほか、日朝関係も友好的になり、江戸幕府は内政に集中できるようになりました。

元禄時代の社会変化

社会の変化についてですが、大きく6つのポイントがあります。

まず最初の変化は世帯人数の減少です。
戦国時代までの日本人の世帯人数は、なんと30〜40人くらいはざらでした。世帯主夫婦と親夫婦、子供たちだけでなく、弟家族や未婚の弟妹たち、また使用人たちも家族の一員だったため、そんな人数になったのです。しかしこの時期、弟家族たちや使用人たちの独立が進みました。スーパーの社員がコンビニのオーナーになるようなもので、頑張れば頑張っただけ収入が上がったためにこの流れは一気に加速しました。

弟家族・使用人の独立は、親族の縦のつながりよりも組や講といった村内の横のつながりを重視する傾向を生みました。この流れから戦国時代以来の有力者たちが没落し、新しいリーダーが生まれることになります。

さらに、村役人の制度が変化していきました。

村の村長にあたる庄屋という役職が世襲制から入札制に変化したり、村の役職にこれまで存在しなかった一般農民代表の「百姓代」が生まれることになりました。

弟家族・使用人の独立は、これまでにない人口爆発を起こしました。

推定ですが、江戸時代初期に比べて少なくとも日本の人口は2倍になったと言われています。
関ヶ原の戦いがあった慶長5(1600)年の日本の推定人口は1,227万人ですが、100年後の享保6(1721)年になんと、3,128万人にまで増加したのです。

人々の暮らしが豊かになってくると、宗教のあり方に変化が生まれました。
これまでの宗教は、生きるか死ぬかの戦国の世で、心の平安を与えることが目的でしたが、現世利益の信仰が活発になり、秘仏の公開などのイベントが活発化します。
戦国時代に焼けて放置されていた奈良の東大寺大仏殿の再建運動が、民間から発生するなどの動きも見られました。

最後の社会変化は、戦国の気風の風化です。

忠臣蔵で有名な赤穂事件に見られる仇討ちだったり、カブキ者(江戸時代のヤンキーのようなもの)の取締がすすみました。これによって治安が大幅に改善され、庶民が平和に暮らすことができるようになったのです。

元禄時代の技術と環境

当時の技術と環境のポイントは大きく4つです。
まず大事なポイントとして、戦国時代に堤防や河川の管理技術が発達したことがあります。
これまでは洪水の被害を恐れて大河川の中・下流域に田畑はあまり作られていませんでした。ですから戦国時代の城下町は越前の一乗谷に代表されるように、山際に建設されました。
しかし、堤防や河川工事の技術の発展によって、平地の新田開発が進み、耕地面積は江戸時代初期に比べ1.5倍になります。このイノベーションが、元禄時代の人口増を支えたのです。

2つ目は新田開発が進んだことで、治水問題・境界紛争・漁業権の保障などの問題が藩の領域を超えるようになり、広域行政の必要が高まったことです。もちろん、その広域行政は江戸幕府が担うことになりました。これによって、幕府は大名と協働で行政を進めていくことになります。

3つ目は新田開発の結果、山の草山・柴山化が進んだことです。
当時は草の肥料を使用していましたから、現在でも奈良の若草山で行われているように
山焼きを行って肥料の草を確保していました。それにより土砂が大量に流出するようになり、河川の土砂をさらったり、土砂を流出させないための工事も大名の領域を超えて広域に行う必要性が生じました。

そこに発生したのが自然災害です。
元禄地震や富士山の大爆発などが発生し、江戸幕府は災害の復興や福祉の対応も行わなくてはなりませんでした。

元禄時代の政治

5代将軍徳川綱吉の政治は、大きく前期と後期に分けられます。
前期は大老堀田正俊を中心とした老中たちが話し合って行いましたが、後期は徳川綱吉本人が政治に直接関わることになります。
ちなみに徳川綱吉は元々今の群馬県の館林藩の藩主で、初の家康直系以外から就任した将軍でした。そのため綱吉政権の後期は、「将軍の権力をいかに高めるか!」という点が重視されました。

この時期の政治のキーワードはまず「人から職へ」です。
企業でも小さな企業では1人1人が何でも出来るオールマイティな能力が求められますが、大企業では営業マンは営業、経理マンは経理というように分業体制がしっかりしていると思います。同様に、江戸幕府も広域行政の必要性などの社会の変化から大きな政府志向となり、組織の整備が行われるようになります。

そして大きい政府を志向し、全国の統治者としての意識を高めたことで行われた徳川綱吉の政策はざっくり以下の通りです。

・全国での鉄砲改め。武器を農民から取り上げて農業に専念させる。
・全国共通の暦を採用(貞享暦)。時間を支配する。
・国絵図、郷帳の作成。国単位での行政をするために地図を作成。
・参勤交代から手伝い普請重視への変更。城普請から寺社の再建へ。
・朝廷儀礼を再興して、将軍の権威を高める。
・寺院本末改め。寺院の組織を把握する。
・交通制度改革。藩の領域を超えて人員を動員できる体制へ。 
・貨幣改鋳。金銀の含有率を下げて貨幣の流通量を増加させる。

このように、これまでとは比較にならない量の政策が実行されていきました。

3代将軍家光は30万人の軍勢で上洛したり、9回も日光東照宮に参詣したりと軍事パレードで将軍の力を見せつけました。
しかし綱吉政権になると、日光東照宮への参詣は中止され、東大寺大仏殿の再興や寛永寺の本坊の建設など徳川家康信仰よりも、普通の仏教や神道が重視されるようになりました。

また、治安を良くするためにカブキ者の処分を徹底したり、赤穂事件で厳しく赤穂浪士を罰するなど、徳川綱吉は武士道よりも儀礼をしっかり行うことで世の中をよくしていこうと考えました。その流れで、血や死の穢れを嫌う服忌令が出されるなど、武士の貴族化が進行したのです。

また、徳川綱吉の頃に天道委任論(てんどういにんろん)という思想が力を持ち始めます。
これは将軍は天から民を平穏に治める能力を持つ優れた人物であると認められたので、日本の支配権を委任されているんだという考え方です。
ここでの「天」は「天に身を任せる」といった用語で今も使われます。
逆に自分だけが良いという風な政治をして、民を疲弊させる悪政を行えば天に見放されるとされました。そのため、徳川綱吉は「仁政」を強く意識していました。

その最たるものが生類憐みの令です。

生類憐みの令は「犬を大事にする」ということだけがクローズアップされがちですが、本来のテーマは生きとし生けるものすべてへの愛です。
ですので、犬だけでなく鳥や獣のほか、捨て子や誘拐・迷子など子供を救済するための政策なども多く出されました。必然的に元禄期の江戸幕府は大きい政府志向となり、元禄時代の日本は前代未聞の福祉国家となったのです。

元禄時代の経済

まず元禄時代の経済についてのポイントは5つです。

  1. 江戸幕府初の財政赤字
  2. 貨幣改鋳によるインフレ
  3. 豪商による大名貸の焦げ付きと新興商人の台頭
  4. 大坂の海運業の発達。京都から大坂へ 
  5. 職種の多様化・細分化・組織化

まず一番大事なポイントは、この時期にはじめて江戸幕府は財政赤字となったことです。
原因はシンプルで、収入の減少と支出の増加です。
江戸幕府には2つの大きな収入がありました。年貢と鉱山から採れる銀・銅です。
ですが、この時期になると銀・銅の産出量が激減します。
しかし広域行政の需要や福祉のための予算が膨らみ、支出は大幅に増えていたのです。

そこで江戸幕府が考えついたウルトラCが貨幣の改鋳です。
貨幣の金・銀の含有量を減らし、たくさんの貨幣をつくったのです。
これまでは金や銀の含有量で貨幣の価値を決めていましたが、含有量が減っても幕府が自身の信用で同じ価値があると決めることによって、同じ価値で流通させることに成功したのです。これは世界的に見ても画期的なことでした。
要は現在の紙幣と同じです。
1万円札自体には紙としての価値しかありませんが、日本国が国家の信用で1万円の価値があると決めているので、1万円として使えるわけです。

お金がたりないのなら、お金をたくさん造ればいいじゃない。

という斬新なアイデアで財政赤字を埋めることに成功したのです。しかし当たり前のことですが、貨幣の流通量が増えたことでインフレが進行することになりました。

3つ目のポイントは戦国時代以来の豪商が没落し、新興商人が台頭したことです。
江戸時代初期の豪商はほぼ、大名へお金を貸す「大名貸」を行っていましたが、この返済が滞るようになり、倒産が続出しました。
そのかわりに台頭したのが、三井越後屋などの新興商人です。
没落した豪商の多くは、町役人など幕府や藩の行政をサポートする職に就くことで生き延びることになります。

そして4つ目のポイントは大坂の発展です。
これまで畿内の経済の中心は京都でした。
しかし海運の発展に伴い、経済の中心は次第に大坂に移るようになります。

そして最後のポイントは職種の多様化・細分化・組織化です。経済の規模が拡大していく中で、これまでは1人が様々な仕事を掛け持ちしなくては生きていけなかったのが、大工なら大工といったようにそれだけで食べていけるようになると同時に、職種ごとに組織化されるようになっていきました。分業で効率よく商品を製作できるようになったのです。

元禄時代の文化

最後に元禄時代の文化についてお話しします。
元老文化は基本的に京都と大坂の上層町人が中心の文化です。

美術では、尾形光琳や本阿弥光悦、野々村仁清などが出ました。
ほか、人形浄瑠璃や歌舞伎、俳諧などが盛んになり、井原西鶴、近松門左衛門、竹本義太夫、坂田藤十郎、市川団十郎、松尾芭蕉といった人が活躍しました。

学問では儒学が発達し、湯島聖堂が設立されたり、医学・暦学・農書・和算などが普及しました。そして、それらを普及させるための手段として、商業出版が行われるようになったのもこの頃です。「仁政」概念を普及させるための太平記や農業全書などの農書の出版などもなされました。

まとめ

元禄時代は河川工事技術のイノベーションによって、新田開発が進み、それを背景に人口が江戸時代初期に比べて2倍になるなど、空前の高度成長期でした。
しかしその結果として洪水などの災害も多発、またエリアも拡大したことから広域行政の必要性が生じたこと、また政治思想としての天道委任論を徳川綱吉は強く意識したこともあって江戸幕府は福祉国家としての大きな政府を志向しました。
結果、江戸幕府は初めての財政赤字を経験します。
徳川綱吉は幕府の収入を増やすために貨幣の改鋳を行い、貨幣の流通量を増加させることで対応しました。それによって経済は活況を呈し、元禄文化が花開くことになりました。
しかし、次第にインフレがひどくなり庶民の生活を圧迫するようになったほか、社会福祉の考えも歪んで犬だけが大切にされるといった事態になってしまいます。
生類憐みの令は綱吉が死去するまで続き、人々の生活を圧迫していくことになるのです。

主な参考文献



高埜利彦「18世紀前半の日本~泰平のなかの転換」(『岩波講座日本通史第13巻近世3』岩波書店、1994年)

菅原憲二「老人と子供」(『岩波講座日本通史第13巻近世3』岩波書店、1994年)

若尾政希「江戸時代前期の社会と文化」(『岩波講座日本歴史第11巻近世2』、岩波書店、2014年)

水本邦彦『草山の語る近世』(山川出版社、2003年)

大藤修『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館、平成8年)

杣田善雄『幕藩権力と寺院・門跡』(思文閣史学叢書、2003年)

鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)

佐々木潤之介『江戸時代論』(吉川弘文館、2005年)
『週刊新発見!日本の歴史31 江戸時代4元禄の政治と赤穂事件』
(朝日新聞出版、2014年)

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