まれの舞台!加賀藩奥能登の揚げ浜式製塩と塩専売制とは?(後編)

【歴史トーク】江戸時代初期の特産品流通〜加賀藩の塩専売制〜(前編)
【歴史トーク】江戸時代初期の特産品流通〜加賀藩の塩専売制〜(中編)
塩の専売制は当初は塩業への助成の効果も高く、山がちな奥能登の人々にとっては貴重な米を確実に手に入れられる制度ということもあって、塩士(塩製造業者)にとっても満足度の高い制度でした。
そのため、加賀藩が塩を販売する金額の半分の米しか塩士に渡さなくても、当初はとくに問題になることはありませんでした。
江戸時代後期の塩専売制
しかし、江戸時代後半になると、塩手米以外の米の供給が藩からカットされるようになり、塩士の生活は苦しくなります。
そうなると今まではスタートアップの事業資金だった塩手米が、今度は自転車操業のつなぎ資金のようになり、逆に負担になってきます。
また塩手米が他の支払いの担保になってしまい、塩を作りつづけても米が手に入らない塩士が増加しました。
そうなってくると、困窮した塩士が行うのが抜け荷(ぬけに)です。
塩と米の交換レートが圧倒的に不利な加賀藩への納入をやめて、藩を通さない塩の流通が盛んになります。
結果、加賀藩の財政も悪化していくのです。
最近の農家は農協を通さず、直接小売業者に販売することが増えているようですが、それと同じような状況が発生するようになりました。
幕末・明治にむけて
また江戸時代後期の奥能登製塩のもう一つの問題は、抜け荷問題が無くても、そもそもの生産量が不足していることでした。
もちろん中編で述べたように、江戸時代初期に比べれば、江戸時代後期は生産量が増加してはいます。
しかし、入り浜式という最先端の製塩方式が行われていた瀬戸内に比べると圧倒的に生産量が不足していました。
そこに抜荷問題もあって加賀藩領内の塩ですら不足し、逆に大坂から輸入する始末でした。
文化文政期に、海保青陵による献策により改善を図ろうとするも、当時の政権担当者の寺島蔵人(てらしまくらんど)は志半ばで失脚。
製塩技術の改良は行われることはありませんでした。
また嘉永期には黒羽織党と呼ばれる藩の革新的政策グループが政権を奪取した際、改めて取り組まれるも改善に至らず、明治維新を迎えるようになるのです。
明治以降の揚げ浜式製塩
その後、明治期にも技術改良が行われることはなく、塩田整理が行われ廃業者が続出します。
一時は完全に廃れるかと思われました。
しかし近年、改めて揚げ浜式製塩は注目をあび、後継者も増えているのだといいます。
さらに北陸新幹線、朝ドラ「まれ」などの影響により、人気が急上昇。
品薄状態になっているようです。
そのせいもあって、最近は塩田が復活。
奥能登の製塩はまた盛んになってきています。
しっかりと売ることができれば、後継者は生まれる。
昔のものを残すためには、売れる仕組みをつくる必要がある。
そんなことも思うのです。
文責:安藤竜(アンドリュー)
主な参考文献
蔵並省自『加賀藩政改革史の研究』(世界書院、昭和48年)
長山直治『加賀藩における塩専売制初期の塩手米について』(『北陸史学』25号)
長山直治「近世能登製塩における生産構造について」(『珠洲市史』昭和55年)
原昭牛『加賀藩にみる幕藩制国家成立史論』(東京大学出版会、1981年)
見瀬和雄『幕藩制市場と藩財政』(巌南堂書店、1998年)
山本博文『参覲交代』(講談社現代新書、1998年)
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