【歴史トーク】生類憐みの令はすべての動物を保護したのか?〜農民の鉄砲所持と絡めて〜

江戸時代はその直前に豊臣秀吉の刀狩りがあり、農民は刀や鉄砲などを持ってはならないことになっていました。
しかし、先日私が資料調査で訪問した石川県輪島市の山村の旧家には、古い火縄銃が保存されているなど、実際には江戸時代の農民は結構鉄砲を持っていました。
今回は、江戸時代の農民の鉄砲事情について述べていきます。
5代将軍徳川綱吉の鉄砲改め
江戸時代初期、豊臣秀吉の刀狩り令があり、加賀藩領でもその徹底が図られていた古文書などが残っていますが、実際のところは全国的に農村に鉄砲がありました。
その状況を改めて調査したのが、5代将軍徳川綱吉です。
貞享4(1687)年の鉄砲改めです。
具体的な数字が残っている長野県の松本藩8万石の事例を見てみましょう。
当時、松本藩は藩として所持している鉄砲は231梃でした。
しかし領地内の農村には合計で1040梃もの鉄砲があることが判明したのです。
藩の持つ鉄砲の4倍以上の鉄砲が、実は農村には存在していたのです。
あまりに危険だということでこの時、500梃が取りあげられることになりました。
あれ?
500梃?
なぜ松本藩は1040梃すべてを取りあげなかったのでしょうか?
鉄砲をもつことが認められた4つの事例
じつは江戸時代の農民にとって、鉄砲は農業になくてはならない道具だったのです。
鉄砲改めの際に、鉄砲を所有することを認められた事例は4種類ありました。
まずは1つ目は、用心鉄砲。
物騒な地域では、鉄砲を持ってよいと認められました。
しかしこれは少数事例で、所有する人も村役人層に限られたようです。
2つ目は、月切鉄砲。
イノシシやシカが多い地域では、空砲でイノシシやシカを脅す用途に限って月単位で所有が認められました。
3つ目は、断鉄砲その1。 月切鉄砲の無期限バージョンです。
4つ目は、断鉄砲その2。
山間地の猟師にのみ認められました。
当初はあくまでも空砲で脅すのみの用途で認められましたが、それでは効果が薄いということで、元禄2(1689)年には領主へ届け出て、認められれば実弾発砲はOK。
必ず討ち取った獣の数も届けること。
というルールに変更されました。
ちなみにこの時期、あの生類憐みの令がどんどん改悪されていった時期の真っただ中です。
徳川綱吉は確かに動物を保護しようとしましたが、イノシシやシカなどの農業の害獣の駆除についてはその限りではなかったのです。
徳川綱吉以降はどうなったのか?
しかしやはり徳川綱吉の生類憐みの令の影響はやはりあって、徳川綱吉の死後はかなり条件が緩和されます。
イノシシ・シカの被害があれば、実弾を発射してもよいか問い合わせなくても良い。
打ちとった数の届けも不要。
おどし鉄砲の許可の願書も必要なし。
猟師の鉄砲の相続・増減も代官・領主が現場の判断で行うようにとの指示が出されます。
綱吉死後は、より自由に農民が鉄砲を使えるようになりますが、それだけ江戸時代のイノシシやシカの農作物への被害がすごかったことの証明でもあるといえるでしょう。
主な参考文献
塚本学『生類をめぐる政治』(平凡社ライブラリー、1993年)