【歴史トーク】「あさが来た」の時代背景を解説。銀目廃止って何が問題だったの?

「あさが来た」では、銀目廃止という一大事件が発生します。
銀貨が廃止されることによって、パニック状態に陥った商人たちが加野屋に殺到。
金銭の払い出しを求め始めます。
はじめは払い出しを断るのですが、最終的にすべての人に払い出しを行って加野屋の金銀が底をついてしまうのです。
それをきっかけに、あさが大活躍を見せるわけですが・・・
そもそもなんでこのようなパニックが起こったのでしょうか?
まずは江戸時代の貨幣制度からおさらい
*貨幣博物館ホームページより
江戸時代、東日本は金貨を使い、西日本は銀貨を使っていたというのはよく知られています。
そして金貨は1両小判など数えることができる単位だったのですが、銀貨は丁銀や豆板銀と言われる重さを量って使うお金でした。
この東の金貨と西の銀貨を両替するのが両替商の存在意義なのです。
今でも銀行が円とドルを両替してくれるように、江戸時代は両替商が金貨と銀貨を両替してくれたのです。
どちらかに統一できればよかったのですが、
1、戦国時代から江戸時代初期にかけては石見銀山など西日本には大規模な銀山があったこと。
2、当時の経済の中心はまだ江戸ではなく、大坂や京都の方が経済力が強かったこと。
3、東アジア全体でみると金ではなく銀が主流だったため、東アジアとの貿易を行っていた西日本では銀でなければいけなかったこと。
このような状況から東は金・西は銀という体制が残ったのです。
しかし鎖国によって貿易も停滞し、銀山も産出量が減少するなかで、この制度を維持する必要性がなくなっていました。
そこで、この面倒な制度をやめ、金貨に完全に統一しようとしたのが銀目廃止です。
なぜ金貨に統一しようとしたの?
それは、そもそも大坂の銀貨は江戸時代の後半から少しずつ使われなくなっていっていたからだと考えられます。
大坂の銀貨は面倒なことに、いちいち重さを量らなくてはいけない貨幣でした。
非常に面倒臭い貨幣だったので、次第に大坂の両替商は銀目手形という紙を発行するようになります。
大坂の商取引は銀貨そのもので取引するのではなく、銀目手形という両替商が発行した紙で取引をするのが主流となっていったのです。
銀目手形とは大きく2種類ありました。
預かり手形と振り手形です。
預かり手形は、銀を何貫(貫:重さの単位)両替商に預けましたよという証文です。
当時は預金通帳などはありませんので、預金するたびに預かり手形が発行されました。
振り手形は預けた銀貨の中から銀何貫を払いますよという証文です。
デビットカード決済のようなものでしょうか。
このように大坂では小口の取引はともかく大口の取引になると、両替商を経由した取引がほとんどになり、ほぼ現金での取引はなくなっていたのです。
そして商人たちから預かった銀貨を大名などへ貸付し、利息収入を得ていたのです。
まさに両替商は銀行とほぼ同等の役割を江戸時代に果たしていたのです。
なぜ取り付け騒ぎになったの?
ではなぜ銀貨が廃止になるとパニックが起こり、取り付け騒ぎが起きたのか?
それは、本来銀貨そのもので取引が行われていたのに、両替商経由の取引ばかりが主流になってしまったため、銀貨そのものの絶対量が世の中になくなっていったからです。
また両替商は商人たちからは金貨で貨幣を預かっても、銀いくらを預かりましたという文章で手形を発行しました。
円で預金してもドルで預金がされているようなものです。
こうして各両替商が持っている銀の量を明らかに超える銀目手形が世の中に流通することになったのです。
ただそうなってくると、実際の銀の量自体は少ないのに銀と交換できる手形がたくさんあるわけですから不安ですよね。
そこで銀の相場が下落していきます。
そんなところに銀貨の廃止となったものだから、一気に銀相場が大暴落。
取り付け騒ぎとなったのです。
銀相場大暴落の損を誰が負担するのか?
また銀を預けていた人たちにとっては、たとえ金貨に両替してもらえるにしてもどのレートで交換してもらえるのか?
という問題がありました。
銀相場は明治元年5月の最後の取引で、1両=219匁6分となって仕舞相場となりました。
この銀相場の大暴落の損をだれが負担するのか?
という点でもタフなやりとりが行われたことが推測され、無事乗り切ることができた両替商とそうでない両替商が発生することになるのです。
主な参考文献
小林延人『明治維新期の貨幣経済』(東京大学出版会、2015年)
古川知映子『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯 (潮文庫、2015年)