【歴史トーク】聖徳太子の謎(後編)聖徳太子の物語は誰が創作した?

前編では、聖徳太子が創作された人物だったということについて書きました。
後編では、
では誰がなぜ聖徳太子という架空の人物をつくったのか?
という謎について、引き続き大山誠一さんの『聖徳太子の誕生』という本から解説してみたいと思います。
そのためには、まずは時代背景を理解しなければいけません。
時代背景
中大兄皇子(天智天皇)・藤原鎌足(645年)による大化の改新があったあと、白村江の戦いでの敗北があり、日本と中国大陸との国交は30年断絶します。
その後、壬申の乱が発生。
大海人皇子(天武天皇)・藤原不比等(鎌足の息子)ラインが生じ、
その後、
持統天皇(天武天皇の奥様)・藤原不比等・長屋王(天武天皇の孫、不比等の娘の婿)ラインが誕生します。
この時期は701年の大宝律令や遣唐使の派遣などが有名なトピックとなります。
藤原不比等の考え
持統・不比等・長屋王ラインの時期、実質的に権力を握っていたのは藤原不比等です。
彼の考えは
「天皇は過去の英雄時代の大王の末裔として、宗教上のトップであればよい」
というもの。
大宝律令を制定し、法律に基づく政治は自分自身が行うことを宣言。
また「古事記」を編さんして、自分たちの政権が歴史的に正当であることを証明しようとしました。
遣唐使の帰還
そんな最中、遣唐使が中国から帰還します。
そこで問題となったのが、「大宝律令」「古事記」の古臭さが判明したことです。
あわてて最先端の中国風の都「平城京」の造営開始。
最先端の律令である「養老律令」の作成開始
「古事記」編さんは推古朝の段階でストップ。
新たに「日本書紀」の編さんを開始します。
「日本書紀」の課題
「日本書紀」に求められたのは、最先端の中国式歴史の導入です。
ポイントは2つ
1、天皇を中国の皇帝と同等に見せること。
2、武力平定の歴史+儒学・仏教を通じた民衆教化の歴史を描くこと。
武力平定の歴史はヤマトタケル・神功皇后でOKでした。
しかし、儒学・仏教を通じた民衆強化の歴史というと・・・
そのような歴史はない。創らねば!
となったのです。
そこで、注目されたのが厩戸王です。
厩戸王が一番都合がよかったのは子孫がまったく残っていないということでした。
そして斑鳩寺を建立したのは間違いなく、また蘇我系の有力者には間違いなかったのです。
そしてヤマトタケルのモデルの久米王の実兄でもありました。
まさにこのとき、
聖徳太子が誕生
したのです。
藤原不比等の死後の流れ
不比等の死後、長屋王による政権が成立しました。
しかし、長屋王の変が発生。
聖武天皇が即位します。
その後、光明子と藤原武智麻呂(不比等の子)政権ができるのですが、災異発生が後をたたず。
困ってしまいました。
聖徳太子信仰の誕生
藤原武智麻呂と光明皇后は、父不比等と不比等が祭り上げた聖徳太子を信じることで災異を逃れようと考えました。
このとき、法隆寺夢殿などの再建がはじまります。
そして聖徳太子に仏教要素を追加するために「三経義疏」を出現させたり、「日本書紀」にないエピソードを追加しました。
それが多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)の創造や天寿国繍帳のエピソードなどです。
そのため、「日本書紀」と法隆寺に保存されている資料のエピソードがまったくかぶらないという事態が発生したのです。
また、聖徳太子の命日については、
長屋王の変は2月12日に発生したということがあります。
2月5日に法要をしてから、長屋王の命日を迎えるのは都合が悪い。
結果、2月22日が聖徳太子の命日と法隆寺系資料では記載されるようになったのです。
参考文献
大山誠一『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、1999年)
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