歴スー女のための相撲紀行シリーズ!三分坂(さんぷんざか)と雷電為右衛門の墓(赤坂)

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。
坂シリーズ+歴スー女のための相撲紀行シリーズのダブル企画!
金沢の坂道をこよなく愛する私ですが、最近、以前の写真を見返していたら東京でも坂道を楽しんでいた写真が出てきたので、ちょっとご紹介します。
それは港区赤坂にある三分坂(さんぷんさか)。
さんぶさかではないのだそうです。
標識には、
急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん・百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。
とあります。
さんぷんが百円余というのがよくわからないのですが、一分銀3つではないようです。
そして、この曲がりぱなに見えるお寺はちょっと注目です。
*wikipediaより雷電為右衛門。
なんとここには、なんと江戸時代の名大関、雷電為右衛門のお墓があるのです。
それがこちら。
標識には、
明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。
生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれ る。
天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九○)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三 十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。
文化十一年(一八一四) 当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政八年(一八二五)江戸で没した。
と、あります。
松江藩の松平不昧公のお抱えだったんですね。
*松平不昧についてはこちらの記事をどうぞ
【歴史トーク】松平不昧に学ぶ文化都市の作り方(前編)
【歴史トーク】松平不昧に学ぶ文化都市の作り方(中編)
【歴史トーク】松平不昧に学ぶ文化都市の作り方(後編)
引退後もお抱えのままだったとはすごいですね。
手形が残っていました。
私の手とは断然大きさが違います。
これが江戸時代最強の男の手だったんですね。
主な参考文献
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