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加賀藩領の絹織物についてもっと調べたいと思っていること。

歴活代表の安藤竜(アンドリュー)です。

最近、小松歴活塾の関係で、小松の絹織物について調べていたら、だんだん面白くなってきて、城端も含めた加賀藩領全体の絹織物についてもっと本格的に調べてみたいと思っているのです。

今回は、そのことについて語ってみたいと思います。

 

以下、だいぶ文体は変わります。

 

江戸時代初期の絹織物について。

錦などの高級品は中国からの輸入品か京都西陣で生産され、平絹は加賀藩領の小松など地方で生産された。

国内においては高級品の京都西陣、平絹は地方という二極構造となっていた。

元禄から享保にかけて、京都西陣は日本の絹織物産業をリードし、大名も京都に呉服所を設置(京都藩邸のルーツ)して京都で呉服をあつらえた。
また江戸の呉服屋(小売)も京都に仕入れのための店舗を設置。
京都から仕入れた呉服を江戸にて販売していた。

三井越後屋には小松方という小松の絹を扱う役職があったほどで、小松の絹織物業も景気が良く、お旅まつりも当時の絹織物業者が始めたものと言われる。

しかし、享保15年の京都西陣の大火以降、西陣の凋落が始まる。

関東の桐生や足利に職人が移り住み、西陣の技術が桐生・足利に伝わることになったのである。

また、享保期はちょうど吉宗が江戸を首都化させようとしていた時期でもあり、大坂から江戸が商業の中心地に移行しようとしていた時期でもあった。

さらに追い討ちをかけるように、京都周辺は絹糸の価格が高騰、京都周辺に比べ絹糸価格が安い関東周辺は価格優位性が高まっていた。

結果、桐生・足利の絹織物の技術は京都西陣に並ぶレベルにまで高まる。

また、他地域においても技術の伝播が行われ、この時期の絹織物の生産地は下記のようにレベル別に4段階に分けられるようになる。

1、高級品で優位を保つ西陣とほぼ同レベルの桐生・足利


2、丹後などの縮緬など高級品を織る技術はあっても、染色が劣る地域

3、小松など平織物の産地だが、少し高級なものをつくる地域

4、城端や郡内など技術レベルは高くないが、低価格のため需要のある絹を織る地域

加賀藩領ではグループ3の地域が小松であり、グループ4の地域が城端となる。

グループ3の小松は京都への輸出において、グループ2の丹後と競合したため、この時期以降、低迷する。そこで江戸に進出しようとしたが、桐生・足利の技術力に敗北し撤退したとされる。

しかし、グループ4の城端や隣藩の大聖寺は競合が郡内(山梨)や秩父の絹だった。
郡内や秩父はこの江戸市場に進出したため、その分城端や大聖寺は京都市場でシェアを拡大することができたという。

 

ここから、私が今後調べてみたいことになります。
大きく3つあります。

まず一つは小松と城端は加賀藩領だが、絹織物の生産量も価格帯やターゲット層も異なるということ。

同じ加賀藩領で同じ京都問屋が販売先のため、同一視してしまうが、藩の政策や産地内の組織の構造・性格なども少し異なってこなければおかしいのではないだろうか?

では何が共通で何が異なるのか。という点が疑問である。

木越隆三氏は加賀藩の改作法の研究において、加賀藩領内でもエリアによって改作法の実施段階がかなり異なることを指摘している。

絹織物についても、同様のことが起こっているとしたら実態はどのようなものなのか。

それを調べてみたい。

そこから、加賀藩における小松町奉行などの遠国奉行の性格(独自性の有無など)とその時期的変化なども、もしかしたら見えてくるのではないだろうか?

二つ目は果たして小松は丹後に負けたから低迷したのか?という問題である。

西陣の凋落により京都絹糸問屋の集荷量はそもそもかなり減退したとの指摘がある。

また賀川隆行氏によると、加賀絹を取り扱っていた京都絹糸問屋の糸屋長左衛門は江戸時代後期は酒造業や江戸下り酒問屋を経営しており、どうもそちらの方がメインだったようである。

京都絹糸問屋の側の問題というのが、もう少しあるような気がしてならないのである。

三つ目は、三井越後屋などの小売の問題。

三井越後屋が江戸時代後半、低迷していたのはよく知られている。

その原因としては、天保改革などの奢侈禁止令によるものだと言われているように思う。

ただ私にはその姿が現在のGMS(総合スーパー)の凋落とダブって見えてならない。GMSの凋落と同時にコンビニエンスストアの台頭があったように、新しい小売の業態(小規模なので古文書などには出てきにくいと思われる。もしかしたら商家の同族団などの研究からなら見えてくるのかもしれない)の台頭は果たしてなかったのか?

そして、京都絹糸問屋や加賀藩領の絹織物生産地は、単にそこへのアプローチが下手だっただけではないのだろうか?

 

現状、完全に思いつきレベルであるが、上記のような3つの疑問が浮かんでおり、ちょっと時間をかけて調べてみたいと思っている。

研究史の読み込みが不足しているので、最新の歴史学研究の流れに沿っているのかよくわからないし、すでにどこかで言われていることなのかもしれない。

また、そもそも調べて判るのかどうかもよくわからない。

でも、久々に自分の中でわくわくしてきたテーマなので、ちょっと楽しんでみたいと思う。

さてさてどうなるやら。

 

*思いつきなので、参考文献などはいちいち記していません。

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